「イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。彼はペリシテ人を打ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。ヒゼキヤ王の第四年、すなわち、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリヤの王シャルマヌエセルがサマリヤに攻め上って、包囲し、三年の後、これを攻め取った。つまり、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリヤは攻め取られた。アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。これは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行なわなかったからである。」
Ⅱ列王記18章1-12節
苦難の時に人のとる行動って、本性が現れる。そんな時こそ、私たちは何をすべきか、誰を頼るのか、これはとても大事なことです。ただ一ついえることは、神様は昨日も今日も、とこしえに変わらない。だから私たちが神様への思いを変えてはいけない、神様にただ信頼し歩もう。神様はあなたを支え、導こうとその御手を今日も伸ばされているのだから。
さて、↑は昨日の話から7年ほど時間がさかのぼり、南ユダ側の話です。紀元前729年、南ユダではヒゼキヤという人が王となりました。彼はキリスト教云々抜きにしても、水道工事や町の整備などしっかりと整えていました。別に不信仰だから、整備をしたわけではないですよ?神様から任された国をしっかりと支えるため、守るため、と言ってもいいかもしれません。
ただ、実は彼の即位した年は大変な状況でした。もう北イスラエルはアッシリヤの危機にさらされ、あと7年もしたら捕囚されていく、そんな厳しい時代にありました。さらには、今週前半で分かち合ってきましたが、彼の父アハズは、北イスラエルと強国アラムが手を組んで南ユダに攻撃を仕掛けてきたため、アッシリヤに魂を売り渡し、勝利を治めた。
結果、彼等は財政的に、倉の中にあるほとんどをアッシリヤに差し出さしたため、相当厳しい、さらには、金、貢物でつながっていた関係、それを離れれば、今北イスラエルに脅威をもたらしている、世界の覇権を握っているアッシリヤがすぐにでも攻めてくる(実際即位14年目に、アッシリヤは裏切った彼らに対し攻撃を仕掛けてきますし)、そのような状況にありました。
その中で、ヒゼキヤの選んだ道は、父アハズのやり方を継続して、貢物でアッシリヤと関係を結ぶ、首根っこをつかまれた死んだ状態で生き延びるか、それとも神様の救いを待ち望むか。ヒゼキヤは後者を選んだ。アッシリヤの崇拝している偽りの神の像を打ち砕き、彼らを断ち切ることを決めた。
でもそれだけじゃなかった、彼等の先祖たちが残していた、自分たちの好きな神々にいけにえを捧げる場所を取り壊した。それは、もう他の神々、存在もしない偽りの神々には頼らない、その誓いがまさに現れていた。これまでの王たちは、ある程度神様により頼んでいたけど、この部分だけは譲れない、と神様にゆだねず、自分の名誉やらプライドやら、神様を信じられない不信仰な部分があったため、この高き所だけは譲らなかった。
しかし、ヒゼキヤは、こんな危機的な状況の中にあって、今は神様なんて言っている場合じゃない、と高き所や他の偽の神々・偶像を残さず、全ての場所を神様に明け渡したのでした。
考えてみれば、神様ここは入らないで、ここにあなたの居場所はない、と締め出せば、そこには神様の御心は働かない。神様は御手を伸ばされている、でも、そこに二人の王がいることはできない。追い出せば、そこは神様のいのちが溢れないのです。しかし、私たちがこれらのすべての場所を、いや、私たち自身を明け渡すなら、そのあなたの内全てに神様の御心が溢れかえる。
結果、「主(神様)に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた」と。神様は私たちから離れない、共に歩みたい、その御心を、愛を、全力を現したいと思っている、その差し伸べられた手に、私たちが信頼し、離れずついていく時、私たちは、↑のような最悪な現状にあっても、今のコロナであろうと、なんだろうと、守られる。どこにおいても神様が一緒におられ、また、どこへ行っても必ず「神様の勝利を」を仰ぎ見る日が来るのです。
↑の一番最後に見るように、北イスラエルは神様から離れ、アッシリヤに捕囚されていく(でも神様は彼らの土地を守っていたこと、救いの日を迎えにイエス様が来られた、という話は昨日の投稿にある通り、完全に見捨てていたわけではない、帰る場所を備えておられた)。そんな驚異的なアッシリヤにあっても彼らは14年の間は守られ、また彼らに頼らなくても神様が、守ってくださった。
↑の個所を私はこれまで何度も読んできたし、何度か分かち合おうと思ったのですが、いまいちピンとこなかったのですが、ずっと列王記の流れを見てきて改めて思った。神様が私たちに求めているのではなく、ただ純粋に神様について、離れない、ということなんだ、と。難しい話を、いや宗教的に難しくすることを私たちはしてしまう。でも神様の愛はもっとシンプルで純粋、でも情熱的なのです。神様はあなたを純粋に愛し、その愛を現したい、あなたから離れず、あなたと一緒に歩みたい。
でも私たちはどこかで、ここは譲れない、と神様から離れてしまう。神様を信用できない、とか。こんな状況で神など信じて何になる?と他のものを頼ろうとおもったり。気持ちはわかる。でも神様はあなたを敗者にしたくない、アッシリヤは私たちの周りにはいなくてもコロナや、現実の不安という恐怖にさらされ、囲まれる。そしてしょうがないよね、と妥協していき、魂、心が削ら得れていく。
でも神様はあなたをそのような苦境から救い出すべく、いやそれだけじゃない、罪の支配・呪い、サタンから、死から、捕囚・もとい裁きから救い出すべく、御子イエス様をあなたのもとに遣わされた。同じ現実の中に。その愛を現すため、一緒に歩むために、人間となって同じ苦境に立たれ、同じ重荷を背負ってくださった。あなたの魂を削るためではなく、あなたに神さまの愛、御心、命を差し出すべく、あなたの内をしめている高き所にある像、悲しみ、痛み、死、全てを背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。これらを打ち砕き、神様の愛、御心、命で満たすために。
そしてイエス様は3日目にこの身代わりの罰を完了させ、よみがえられ、これらすべてを取り除け、復活のイエス様があなたの内に住まわれるのです。神様の御心、御力という像というか、イエス様自身があなたの内に住まわれ、あなたと共に、この苦難の時も、どんな時も離れず、天の御国に行くその日まで、あなたを導かれる。イエス様がエスコートし、その御心の道を歩ませて下さる。やがて神様にある勝利の日を迎えさせてくださる。神様は昨日も今日も、とこしえに変わらない。だから私たちが神様への思いを変えず、神様にただ信頼し歩もう。