―離散の日、救いの日― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…ホセアがサマリヤでイスラエルの王となり、九年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。アッシリヤの王シャルマヌエセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、みつぎものを納めた。しかし、アッシリヤの王はホセアの謀反に気がついた。…それで、アッシリヤの王は彼を逮捕して牢獄につないだ。アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、主が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした。主が彼らに、『このようなことをしてはならない』と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。…アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。…彼らがそこに住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らのうちに獅子を送られた。獅子は彼らの幾人かを殺した。そこで、彼らはアッシリヤの王に報告して言った。『あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。』そこで、アッシリヤの王は命じて言った。『あなたがたがそこから捕らえ移した祭司のひとりを、そこに連れて行きなさい。行かせて、そこに住ませ、その国の神に関するならわしを教えさせなさい。』こうして、サマリヤから捕らえ移された祭司のひとりが来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するかを教えた。…」

Ⅱ列王記17章1-41節

 

私たちは神様なしには決して生きることができない。でも神様は私たちを生かそうとその御手を、私たちが暗くてどうにもならない日であっても伸ばして下さり、ご自身の愛の内にもう一度招かれ、回復させようとその心を注ぎだしている。どんなに心がコロナや様々なことによって散らされ、砕かれようとも、神様のもとに招かれる。だから私たちもまた、この神様の前に心を注ぎだし、神様のもとに帰り、この命を得よう。永遠の命のうちに。

 

さて、↑は紀元前722年北イスラエルに起こったこと。そう、北イスラエルがアッシリヤに捕囚された年。その時何があったのか、聖書で明白に記録している。驚くべきことに、聖書は、「アッシリヤが悪い、イスラエルがかわいそう」とは記させなかった。自分たちの正当性を主張し、ごまかすのではなく、悪いことは悪い、罪は罪、と明白に記し、神様から離れ続けた彼らは、神様を選ばず自分の魂を注ぎだした者たちに裏切られ、ついには捕囚されていった、その悲しい結果を正直に記している。

 

神様は別に彼らを助けてこなかったわけではない、これまで何度も何度も彼らが最悪の津罪を犯している時でさえ、預言者を遣わし、また奇跡を行いながら、その心を注ぎだしてきた。しかし、イスラエルは神様を信じて何になる?と「他の宗教と同じように考え」、神様に頼っても意味がない、と離れて、別なものに魂を売り渡し、貢物を捧げていた。

 

↑をみえると、神様が「これをしてはならない」といったことを守らなかった、と何かを強制していたように見えますが、神様は別に宗教的に拘束、支配したいのではない。私たちが幸せになるため、私たちが安全に平和に生きる道を、具体的なことも事細かに教えていたのです。気をつけなければいけないこと、祈れば答えてくださることも示していた。

 

それは究極的には、その幸せを「神様が与えてくださる」、「神様と結ばれた家族関係」において与えてくださる、その実を結ばせてくださるのです。神様はここにいつも私たちを招いてくださる。その思いが捕囚後にも表れていますよね?

 

↑を見ると、アッシリヤ捕囚にあった北イスラエルは散らされ、離散されていきます。神様は、彼らが帰るべき場所を守られた。アッシリヤによって奪われた土地を守られたのです。あなたの心のよりどころ、命を食いつぶそうとするものを神様は打倒してくださったのです。そして、雑婚という形になりますが、異邦人の民と、残されたイスラエルの民が結婚し、「イスラエル」という国の形は失っても残っていくのです。もちろん、世界中に離散された民もいますが。

 

神さまの愛はこの民の内に留まっていた。ちなみに今から70年以上前になりますが、イスラエルが再建された際から、多くの離散されたイスラエルの民が帰国し始めています。神様は彼らを見捨てていなかった。神様は、その御手をいつも伸ばされながら、帰るべき場所を用意され、守られていたのです。

 

私たちは今コロナもあって、心が離散し、どのように生きたらいいかわからなくなっている。これまで常識として頼っていたものに裏切られる。頼っていた家族も時には一緒に住めなくなっている(医療従事者・感染した家族など)。そしてこれからどうなるかわからない、捕囚後のサマリヤ(元北イスラエルの首都)が、実際にどうしたらいいのかわからないでいたように。これまで一緒だった民は散らされて。

 

しかし、神様は今私たちを覚えていないのだろうか?↑で、彼等は神様に従わなかったから捕囚され散らされた、その民を見捨てなかった神様がどうして、今あなたを見捨てていることなどあるだろうか?

 

神様は、このサマリヤを覚えておられた。今から約2000年前、捕囚後から700年後くらい、御子イエス様がお生まれになった。そして、イエス様は捕囚から帰ってきた南ユダによって、神様観の違いから差別を受けていた、そのサマリヤを訪れられた。そして救いを届けられたのです。他の人たちは避けて通るところ、ここを行かないわけにはいかない、素通りできない、神様の愛は、素通りできない、見捨てられない、と公生涯短い中で、この地に救いを、愛を届けられた。

 

彼らのためにもイエス様は留まられた。イエス様の住まいがそこに設けられ、彼等は招かれた。イエス様の十字架に彼らの除外は考えられないから、十字架にかかる前に彼らを訪れられた。彼らの悲しみも、背負われ、十字架にかかられ、死なれた。彼らの罪を赦し、彼らを神様のもとに招くため、彼等の居場所を神様の家族に備えるため、天の御国に備えるために、彼らを覚え、十字架にかかられ死なれた。そして3日目によみがえられたことによって、神様から断絶され、散らされていたすべての人をご自身のもとに招かれた。

 

↑のひとりの預言者どころじゃない、御子イエス様が彼等のいのちとなられ、彼らに教え、導かれる。私たちにもです。復活のイエス様があなたの内に留まられ、新しい命を与え、その御心、御力をもってあなたを導かれるのです。罪びとである私たちを雑婚じゃないですが、神様の家族に招くなんて本来あり得ないのに、そのあり得ない逆転をあなたの内に起こすため、命まで捧げられた。

 

このイエス様のいのちにあって招かれ、始まる新しい命。神様はあり得ないことをして、あなたの内に魂の大逆転を起こされる。今日私たちはこの神様の招きに応じ、この命の内を歩もう。散らされたあなたを取り戻され、神様のいのちにあって新しく回復されたのだから。