―それでも静かに待ち望む、永遠なる方を― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「レマルヤの子ペカの第十七年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となった。アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行なわず、イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来てアハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。そのころ、アラムの王レツィンはエラテをアラムに取り返し、ユダ人をエラテから追い払った。ところが、エドム人がエラテに来て、そこに住みついた。今日もそのままである。アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。『私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。』アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。そこでアッシリヤの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕らえ移した。彼はレツィンを殺した。アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。…アハズの行なったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。アハズは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともにダビデの町に葬られた。彼の子ヒゼキヤが代わって王となった。」

Ⅱ列王記16章1-20節

 

私たちはいつまでも暗闇の中にいる時、様々なところに救いを求める。でも、果たして神様は何もしないのだろうか?神様はインマヌエル、あなたといつも共にいる神様です。あなたの内に神様が、永遠なる神様がその目を注ぎ、御心を現したいと、あなたがその顔を、心を向けるのを今日も待っている。

 

さて、↑は紀元前730年ごろ、南ユダ王国の話。時の王はアハズ。紀元前722年には、北イスラエルは完全にアッシリヤに捕囚され、民は散らされていきます。当時覇権をすでに握っていたアッシリヤは今、北イスラエルと南ユダにその触手を伸ばしていました。

 

そんな危機的な状況の中で、北イスラエルはなんと、南ユダを、兄弟国であるはずで、以前分かち合いましたが、南ユダに、敵から守ってほしい、と同盟を「お願いしていた」身でありながら、なんと、アラムという、これまた強国と手を結び、攻撃を仕掛けようとしてきたのです。今、アッシリヤの危機が迫っているのに、そんなことをしている場合じゃないだろう!と普通だったら思うのですが、もう、南ユダからしたらたまったものではありませんでした。

 

以前同盟を結んでいたわけだし、いざとなればともにアッシリヤに立ち向かうか?と考えていたかもしれない、しかしこともあろうに、兄弟国に裏切られ、今攻められている。泣きっ面にハチもいいところです。その場面が↑。じゃあどうしよう、って。

 

そんな絶望下に、神様は↑には登場しませんが、イザヤという預言者を南ユダに派遣していたのです。預言者というのは神様の御心をそのまま伝え、またその預言者を通して神様の御業がなる、裏を返せば、預言者がそこに遣わされる、ということは、今神様がその目を、心を注ぎだしている、ということ。

 

私たちは今本当に厳しいご時世を迎えているけど、このことを忘れてはいけないのです。神様は、あなたのことを決して見放さないし、あなたに心を注ぎだしている。でも、この神様自身に私たち自身も心を注ぎださなければ何にもなりません。↑ではあはずはそれと逆の道をたどったのでした。

 

と、話はそのイザヤの話に飛ぶのですが、イザヤを神様は、このアハズ王のところに遣わします。アッシリヤと同盟を組む前に。確かに北イスラエルとアラムは同盟を組むけど、彼等は必ず打ち砕かれる、と宣言されたのです。しかし、アハズはこれを信じられなかった。「私は求めません。主を試みません。」と。アハズは、↑の前半にあるように、色んな自分の願いにこたえる、言いなりになる神をとっかえひっかえ変え、探していた。そんな自分の思う通りにならない神など求めてもしょうがない、と。

 

しかし神様は驚くべき預言を語るのです。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。そう、救い主イエス様の誕生の預言。神様が、処女が身ごもる、しかもインマヌエル・神様が共におられる、という意味の子を与える、と約束されたのです。

 

その実現は、その約700年後ですしだいぶ先。でも神様は、そんなあり得ないことさえあなたのために計画している。やがてすべての悪・罪を打ち破り、神様の永遠の御国を建てあげる、それほどの壮大な愛の実現を、あり得ない壁を破り、実現させてくださる神様が、どうして今のあなたを心配しないだろうか?奇跡が大事なんじゃない、それだけの愛をあなたの内に実現させようとしてる神様が、今、あなたと共にいる、ということを忘れてはいけない、そのことをイザヤを通して神様は訴えられたのです。

 

だからこそ、今あなたは選ぶように、と訴えた。しかしアハズは最後まで神様を信じず、アッシリヤと手を組み、北イスラエルとアラムを撃退し勝利を治めるも、結局そのアッシリヤの属国のような状態になり、貢物を治めていくことになる。その貢物によって、お前たちを守るよ、と。結果、神様の永遠の愛、御心ではなく、金によって支えられるアッシリヤという悩みの種が結局支配していった。毒を以て毒を制す、ではだめなのです。それは結局私たちを別な何かが支配するだけで、本当のいのちはそこにない。

 

神様は、インマヌエル、共におられる方、永遠に。その神様がその御手を伸ばされている、我が子として、その御心を現そうとしている、その御心を、御業を私たちが疑ったら一体だれがあなたの魂を守るだろう?あなたの苦しみ、悩み、何より罪・サタンの支配から解き放てるだろう。一時的にこの世の思い煩いから勝利を治めても、最後にサタンにその魂を奪われては何の意味があるだろう。

 

しかし神様はあなたの内に永遠を現そうと、金ではなく御子イエス様によってあなたにその契約、愛を示され、実行されたのです。神様はご自身の最も大切な御子イエス様をあなたに差し出し、その命をあなたの罪の身代わりにされ、あなたの重荷も全部背負われ十字架に架け、死なれたのです。そして復活と共に、あなたが、あなた自身の心を神様の前に差し出す、悔い改める時、あなたの内にあるすべての思い煩い、痛み、何より罪は全て許され、解放されるのです。

 

イエス様はあなたの内に御心を成そうと、その住まいをあなたの内に造られるため、十字架にその命を差し出された。人となってまで、死んでまでもあなたと共に生きることを選ばれた。それほどの愛を実行された神様が、イエス様があなたと共にいる、あなたの味方であるなら、どうして私たちは恐れる必要があるだろう。この世の思い煩い、悲しみ、何よりサタンの支配は必ず、↑の様に終焉を迎え、インマヌエル、神様の御心だけがなる、だから私たちはこのイエス様の御心がなることを静かに待ち望もう。

 

イザヤはこのようにも言った。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」。私たちはぜひ、stay Homeならぬ、この神様のいのちに留まり、静かに待ち望もう。その中に神様はその御心を、力を現される。神様こそあなたの盾であり、力です。この真のいのちに今日、生きよう。