―手を変え品を変え、でも大切な事を忘れてません?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…ヤロブアム(2世)の子ゼカリヤがサマリヤでイスラエルの王となり、六か月間、王であった。彼は先祖たちがしたように、主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち、彼を殺して、彼に代わって王となった。…主がかつてエフーに告げて仰せられたことばは、『あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く』ということであったが、はたして、そのとおりになった。…ヤベシュの子シャルムが王となり、サマリヤで一か月間、王であった。ガディの子メナヘムは、ティルツァから上ってサマリヤに至り、ヤベシュの子シャルムをサマリヤで打ち、彼を殺して、彼に代わって王となった。…そのとき、メナヘムはティルツァから出て行って、ティフサフ、その住民、その地境を打ち破った。彼らが城門を開かなかったのでこれを打ち、その中のすべての妊婦たちを切り裂いた。…ガディの子メナヘムがイスラエルの王となり、サマリヤで十年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、一生、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。アッシリヤの王プルがこの国に来たとき、メナヘムは銀一千タラントをプルに与えた。それは、プルの援助によって、王国を強くするためであった。メナヘムは、イスラエルのすべての有力な資産家にそれぞれ銀五十シェケルを供出させ、これをアッシリヤの王に与えたので、アッシリヤの王は引き返して行き、この国にとどまらなかった。…メナヘムの子ペカフヤがサマリヤでイスラエルの王となり、二年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。彼の侍従、レマルヤの子ペカは、彼に対して謀反を企て、サマリヤの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエとを打ち殺した。ペカには五十人のギルアデ人が加わっていた。ペカは彼を殺し、彼に代わって王となった。ユダの王アザルヤの第五十二年に、レマルヤの子ペカがサマリヤでイスラエルの王となり、二十年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕らえ移した。…」

Ⅱ列王記15章8-31節

 

今のこのご時世、不安が先行し、手を変え品を変え、がんばる。でも、私たちはまず第一に忘れていないだろうか?手を変え品を変え、不安を払しょくしようともがく前に、今目の前にあなたに御手を伸ばされている神様の恵みを。自分の求める経済的な何かではない、とはねのける前に、神様がどれだけあなたを愛し、恵まれているのか、これに目を留めよう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の末期、北イスラエルの最後の方の時代です。アッシリヤ捕囚にあう前の。↑で記録されているとおり、アッシリヤの脅威はもはや目の前に迫っている、一番下の方にあるように、もう捕囚が始まります。世界的見てもすでにアッシリヤ帝国は覇権を握っていて、北イスラエルは最悪の危機的状況を迎えていました。

 

こんな国難の時こそ、一致団結して立ち向かわなければいけないはず、しかし、国は権力争い、暗殺、新しい王がたつ、その連続だということが↑で良く見えますね。こんな王ではだめた、こんなものは役に立たない、と切り捨てる。でも彼らは見るべきことを見落とし、忘れていた。神様に立ち返る、そのことを忘れていたのです。

 

↑に一番最初に登場するゼカリヤ。彼はヤロブアム2世の息子。神様に逆らうヤロブアム2世、その彼を神様はそれでも憐れまれ、アッシリヤ帝国に預言者を遣わし、彼らを悔い改めに導き、北イスラエルに攻めてくるのを100年近く遅らせた。アッシリヤ危機が迫る中で、神様があり得ない憐みを示されていた。ゼカリヤはそれを見ていた。父を憐れまれた神様を。

 

しかし、ヤロブアム(初代北イスラエルの王)の罪から彼は決して離れなかった。どういうことかというと、ヤロブアムは神様から彼は王として指名されたにもかかわらず、自分を頼らず真の神様を頼る民が、自分から離れていくことを恐れ、金の子牛像を作って、これが神である、と礼拝させた。ようするに、こんな神など頼ってもしょうがない、わたしをあがめよ、私に仕えよ、としていた、ということ。自分を過信していた。神などいなくても私は生きられるんだ、と。

 

ゼカリヤの先祖エフ―に神様は祝福の約束をしていた。神様はその御手を伸ばされていたのに、そんなものはこのご時世何の役にも立たない、だから私は私でやるんだ、と神様を棄てた。王たちを変え、手を変え品を変え…結果、神様の恵みまで失われ、。最後はアッシリヤに捕らえ移された。

 

この個所を読みながら、王たちの相次ぐ交代、暗殺は、ひとえに信頼のなさ、不安定さにある。それはそうだ、人間だもの。不安なんだ。この王じゃあだめたって。それで暗殺が起こって、交代、その繰り返し。で、ヤロブアムの罪から離れず、自分の頼る神的なものを作り上げる。でもそれは答えなかった。だって存在しないから。だからますます、王たちは自分たちの力に頼り、絶望的に最後を迎える。

 

今の時代、また終わりの時代もそう、やがて今のご時世どころじゃない時代を迎える、特に終わりの時には。闇の勢力、偽キリストも現れる。そして手を変え、品を変え、私たちの心を奪い、でもサタンの、罪の勢力によってあなたの領地を奪い去っていく、そのような時が来る。こんな神など信じて難になる?神は何もしないからこんな風になるんだ、と言って惑わす時が来ます。今の時代だってそう、コロナ問題でいったいどれだけ私たちの心を不安で支配させ、今神様が与えてくださっている恵みを忘れさせる。

 

でも、神様は本当に何もしないだろうか?私たちは手を変え品を変え、神をひっきりなしに変えていないだろうか?この神様は今は役に立たない、今はこれにたよるべきだって。でも神様は終わりの時もそうですが、最後私たちを迎えに来る、新しい天地、御国に私たちを迎えに来てくださるように、神様は私たちをご自身のものとに引き寄せたいのです。

 

私たちは神様を信頼できない、この世の状況ばかりを見て神を変える。他に神様はいないのに。しかし、今こそ、今与えられている神様の恵みをもう一度思い出そう、いやこれを味わおう。神様は全てに打ち勝ち、勝利させてくださる。罪に、サタンに、死さえ、イエス様の十字架の前、私たちの身代わりに罰せられたあの十字架の前には何もできなかったのですコロナが、不安がどんなに私たちの心を支配しようとも、神様の平安の前にこれは逃げ出す、消え去るのです。これほどに愛される復活のイエス様が、あなたの内に住まわれ御心を今あらわされるのです。

 

手を変え品を変えの前に、今あなたに与えられているものを考えよう。イエス様のいのちです。この命、十字架で保障された神様の恵みです。これは言葉には言い尽くせない。命に代えられる「物」は存在しない。あなたを丸ごと取り戻しご自身のものにするために、御子イエス様のいのちが差し出された、その命によって、今日あなたは生かされているのです。世は手を変え品を変えあなたの魂を奪おうとしても、イエス様の救い・愛は決して変わりません。

 

手を変え品を変え、の前にこの神様に御心がなること、平安がなること、この国の癒しのため、リバイバル・回復のため、祈ろう。このイエス様にあって、新しい恵みのいのちがあなたの内に、またあなたの祈り仕え、従っていくところに、「神様が」変えていかれる。復活のイエス様が、世の終わりまであなたをそこにエスコートしてくださる。だから私たちは、ただ神様の御心を願い、従い歩もうではありませんか。神様が招く御国に心躍らせ待ち望み。