「イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた。アザルヤのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。アザルヤが彼の先祖たちとともに眠ったとき、人々は彼をダビデの町に先祖たちといっしょに葬った。彼の子ヨタムが代わって王となった。」
Ⅱ列王記15章1-7節
神様は、私たちを強制的に従わせるようなしもべ、奴隷のようにではなく、愛する我が子として生かし、また養いたい。養ってくださっている。今世的な目で見たら何もないように見えても、神様が与えてくださっている素晴らしい恵みを受け取り、これに生きよう。他の人が何というかが大事じゃない、神様がくださっている恵みを信じて受け取るか、これが大事。
さて、↑は古代イスラエル、南ユダに起こった出来事です。時代としてはもう、紀元前700年代に入って、アッシリヤが迫ってきています。で、時の王はアザルヤ。ウジヤという名前の方が一般的に知られているか、また預言書で「ウジヤ」という名前で語られているので、ウジヤの方がわかりやすいかもしれません。
で、このウジヤという人、↑を見るといまいち何をしたのか、よくわからないのですが、他の歴史書簡を開くと、実際のところ、神様は彼の治世を栄えさせていたようですね。それによると、彼の側近に、ゼカリヤという人がいて、彼は神様の素晴らしさを教え、彼が生きている間は、神様を慕い求めた、とあります。神様は、そのようにとんでもない状況にあっても助け手を置かれていた、ということが分かりますね。
ウジヤ自身神様を求めて難になる?今現実、アッシリヤの足音も聞こえてきているし、という思いもあったでしょう。しかしゼカリヤを通して神様はその愛を約束通りに果たされ、神様の御心がこの国に現れた。
彼らの脅威となっていたペリシテを打ち倒し、アモンという強国も、神様に恐れをなして、貢物をもって国を支えていた。さらには国城壁、国内の農業を含めた状況も改革して豊かにしていった。神様が彼の成すことを成功させてくださっていたのでした。さらには、常時戦いに備えをしていた、舞台を整えていた。
でもこれらすべては、神様の助けによったのでした。周りの国々は当時の南ユダを見て、このように証言していました。「彼が驚くべき助けを得て、強くなった」と。人間の力、助けによるなら、アッシリヤの脅威、強さを知っていたから、たいして驚かないでしょう。しかし、それは人知を超えた知恵、力、強さだった。それに周りは驚かされていたのです。彼は、その神様の助け、導きに信頼し従った。それが↑の「主の目にかなうことを行った」ということだった。
しかし、ここで一転する。ウジヤが強くなると、彼は高慢になり、これまで神様が支えてこられたのに、この神様の居場所はもうこの国にはない、と追い出し、高きことろに自分の心を注ぎだし、異国の神々を求め始めた。そこで彼を咎めに、というかなだめに来た祭司たちにブチ切れ、結果、彼は↑にあるようにツァラアト(重い皮膚病)に犯され、彼は王でありながら神様の恵みの御座から、宮から引き離され、隔離され、世を去る、という悲しみの最期を迎えるのでした。
彼の生涯を見ていると、いくつか気になる点がありますね。まず第一には、ゼカリヤという助け手が生きている間は神様に従った、という点。他の人が言うから、従った、ともとれる。これ、どう思います?これは直感的に悪い、と感じるでしょう。言われたからやる、では全然喜びがない。成長もない。あのお世話になっている人が言っているから、とりあえず聞いておこうか、とか。
でもそれって、他人だよりで、自分の心はそこにはないですよね。心がそこに伴わないから、不安で仕方ない。いつ神様がもしかしたら、見放すのではないか?本当に私の祈りを聞いてくれているのか?もしかしたら神様はこの問題については答える力はないのではないか?とか。
でも、神様は他人を介した関係ではなく、あなた個人の内に神さまの愛を、御心を現したいのです。あの人はあの人です。その人に起こっていることを自分にも表してください、なんていう必要はない、あなたにはあなたへの神様の御心を成してください、と祈ること、それが大事なのです。神様はコピーペーストのように同じものを与えるのではなく、あなたにはあなたへの愛を、御心を現したいのです。
ですから、誰かが言うから仕方なく従う、とか、↑でいうなら親が祝福されているから、私も信じて、同じ祝福をもらおう、そんなんじゃだめなのです。あなた自身が神様との関係を結んでいく、その中で神様はあなたの内に愛を、御心を、あなたに適したベストを現してくださる。
私たちにはウジヤのように、彼を支えるゼカリヤはいないかもしれない。でも、どんな状況にあってもあなたを間違いなく支える方、神様は確かにおられる。私たちは神様など信じたって意味がない、とかいう。でも、神様は、あなたの内に意味を、命を注ぎたい。サタンに、この世の悲しみに、痛みに、魂を砕かれるようなこのいまの世界の現状に心奪われてしまったこの領地を、罪によって失われてしまった神様の祝福の領地を取り戻し、さらにその取り戻したところを神様の御心によって造りかえる、神様の御力によって変えてくださるのです。
ウジヤは城壁を建て、常在戦場のごとく備えていた。でも、私たち自身が神様という城壁をしっかりと建てなければ意味がない。これは他人事、とみて神などいなくても何とかなる、なんて考えるのではなく、神様こそわが城壁なり、と神様としっかりと関係を持つ、その中で私たちはこの神様から平安を、力を受けるのです。常在戦場、私たちは日々日々この神様との関係をしっかり持つこと、それこそ大事。
今、このご時世で何もない、と思ってないか?でも神様との関係において神様が今下さっているものを侮っていないだろうか?私の家には神様の居場所などない、と追いやって他の何かで満たしていないだろうか?
神様はね、別に私たちを強制的に従わせるようなしもべ、奴隷のようにしたいのではない、愛する我が子として生かし、また養いたい。養ってくださっているのです。でも、私たちが神様との関係を他人事としてとらえていては、おいやっていてはこれを受け取ることはできない。下さっているんですよ?でも拒否してはどうして受け取れるでしょう。でも神様はあなたを無関係なものとして捨てる事よりも、あなたを愛する事を選ばれた。あなたを罪の奴隷、あなたの領土をサタンの手から取り戻すために、御子イエス様を遣わされ、最後はイエス様のいのちをもってあなたを買い戻してくださったのです。神様の子として迎え入れようとされたのです。
業績を上げるのは、私たちじゃない、神様があなたの内にその御心を現される、神様の業績なんです。それによって私たちは生かされる。あなたが御子イエス様をあなたの宮に迎え入れるなら、イエス様はあなたの内に住まわれ、あなたの城壁となり共に戦い、あなたに日々日々必要を備え共に戦い導かれる。あなたにはあなたへの神様の御心、御力を現される。
イエス様は他あの人たちはイエス様を何と言いますか?と問われ、答える弟子たちに、「ではあなたはどう答えますか?」と聞かれました。あなたがイエス様とどう生きるか、これが大事。イエス様はあなたに命を差し出された。あなたは今日どうこたえるだろうか。