「イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレムの出であった。彼は主の目にかなうことを行なったが、彼の父祖、ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行なったとおりを行なった。ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。…そのとき、アマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに、使者を送って言った。『さあ、勝敗を決めようではないか。』すると、イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに使者を送って言った。『レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、【あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか】と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。』しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。それで彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで対戦したが、ユダはイスラエルに打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げ帰った。イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤを、ベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムに来て、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ちこわした。彼は、主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、およびすべての器具、それに人質を取って、サマリヤに帰った。…エルサレムで人々が彼(アマツヤ)に対して謀反を企てたとき、彼はラキシュに逃げた。しかし、彼らはラキシュまで追いかけて、そこで彼を殺した。彼らは彼を馬にのせて行った。彼はエルサレムで先祖たちとともにダビデの町に、葬られた。」
Ⅱ列王記14章1-22節
私たちは神様の愛によって神様のもとに近づけさせていただける、この神様にあって強められ、神様の御心が、私たちの魂を強め、また豊かにしてくださる。私たちはこの神様に魂の満たしを、救いを、平安を願い求めよう。神様からあなたに愛を示され、近づいてこられた、この素晴らしい恵みに生きよう。
さて、↑は紀元前イスラエル王国、王国が分裂して北と南に分かれていました。で、↑は南はアマツヤ、北はヨアシュが王を治めていた時に起こった出来事です。結構比較的、北イスラエルの方が神様に逆らって、南ユダが神様に従う、そんな状態がイスラエルだった。ただ、ここで南ユダの王、アマツヤが戦いを仕掛けてくるのでした。
昨日、一昨日の個所でも見たように、北のヨアシュ王は自分の宗教のリーダーに助けを求めず、真の神様の遣わされたエリシャに救いを求めた。彼は神様の憐みを受けていた。彼は、アマツヤに「誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい」といみじくも言っていますが、実は彼自身が今、神様の憐みの家に留まっているのだから、その神様のながれにさからってはいけない、と逆に諭されるのでした。
このアマツヤ、彼は一見神様に従っていたのですが、一つ大きな問題があったのでした。それは、高き所を取り除かなかった。この高き所、↑にも「が、取り除かなかった」と指摘されるほどに神様が問題視しているそこ、それは実は、3代目のイスラエル王ソロモンが、自分の1000人いる妾と奥さんたちのご機嫌取り、彼らの信じる宗教を礼拝する場所として建てた場所なんです。奥さんたちのご機嫌取り、神様よりも奥さんたちの背後にいる諸外国へのご機嫌取り、経済の安定を求める…
結局それは神様への不従順、神様を求めていない象徴の場所だった。神様は全部を満たしてくれない、神は答えないから、ここだけは譲れない、他の神に、諸外国にゆだねる、その象徴の場所だった。何より最後はソロモンは神様を棄て、この高き所で異教の神々を礼拝してましたしね。
そんなものだから、神様はせっかく彼に御手を、それこそ、北のヨアシュに伸ばされていたように、神様の素晴らしいご計画の中に招こうとしていたのに、拒否した。神様が勝利を治め、国を強くしてくださったのに。明日はそうなるかわからない、という不安もあるのか?結局神様を信じないから、自分の力に頼っていった。そして神様の恵みの道とは逆行し、結局「主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、およびすべての器具、それに人質を」取られてしまった。失い、最後は謀反を起こされ死ぬ…
一方、神様の恵みを求め留まっていた北の王ヨアシュは驚くべき恵みをいただくこととなるのでした。北からしたら侵略されるピンチ、しかも時には友好関係にあった南ユダ、兄弟国に裏切られ、大ピンチ、アラムも迫りピンチ、でも神様に留まっていた彼は確かに神様は守り救われた。彼に確かに神様が共におられ、神様ご自身が与えられていた。何もない、そのような状況にあって。北イスラエルは、悪の道をひたすらに走り続けてきた。一体どれだけ彼らを憐れむ価値があっただろう?しかしそれでも神様はその御手を伸ばされていたのです。
私たちは今苦難の時代を迎え、神様を、救いを求めさまよい歩く。高き所、神様を求め、近づこうと必死になる。上なる者たちは、為政者たちも確かに頑張っている、でも私たちはさらに高き所より降りてこられた真の神様に救いを求めよう。この神様の御心がなることを何より願おうではありませんか。
私たちは自分の内にある者を失っていくことを恐れる。この時代、特にそうだろう。それはそうだ、人間ですから。しかし真の神様以外にいくら香をたこうと、祈ろうと、何も彼らはすることはできない。今、その無力さを私たちは実感しないだろうか?これまで当たり前と思っていたこと、常識が通じない時代、ここまでやれば大丈夫、と過信しても何もできない。
そして気づく、神様を求めることをしていない、軽視し、敵対していることに。私なら何とかなる、と高慢になり、神様を求めない、敵対してることに。神様は何もしない、自分の思う通りにしない、と。でも果たしてそうだろうか?祈っても無駄、と思う前に祈ることをやめていないだろうか?自分のプライドに、この世の何かに祈りを、心を明け渡して、神様に明け渡すことをやめていないだろうか?
しかし神様はあなたにすべてを明け渡すため、御子イエス様を人として生まれさせてくださった。天から梯子を地上に向けて架け、降りてきてくださった。そして多くの奇跡を、様々な恵みを与えてくださった。でもそれだけではなく、私たちのこの罪を、神様を神様とせず、信じず、敵対し歩む私たちを憐れまれ、その罪の代価を身代りにイエス様に支払わせた、十字架に架けて死なせたのです。そこまでしてまであなたと和解し、御子イエス様と共にすべてをあなたに、その愛を、御心を、御力を、あなたに明け渡す、注がれたのです。
まだ神様は目に見える結果を見せていないかもしれない。でもイエス様を身代りに死なせてまであなたのために行動を起こされる神様が、どうしてあなたを見放すことがあるだろう?しかしこの御子イエス様にあって結ばれた、あなたの内に注ごうとしている計画、御業を待ち望み、仰ぎ見よう。御心が、御国がここになることを祈り求めようではありませんか。
あなたの求める答えを応えないから神様は何もしていないのではない、イエス様を十字架に架けてまであなたを愛する事を選ばれた神様は、今日、この日、何かを現在進行中で行ってくださっている。今、あなたの高き所を取り除き、私たちは神様に留まろう。誇ることなくあなたの家、神様の家に留まろう。何より復活のイエス様があなたの内に留まってあなたを導かれているのだから、私たちはこのイエス様の栄光を、御心をただひたすらに求め、なることを待ち望もう。大逆転の日を信じて。