―キリストの死がとんでもなく驚くべきことを― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。アラムの王ハザエルは、エホアハズの生きている間中、イスラエル人をしいたげたが、主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。アラムの王ハザエルは死に、その子ベン・ハダデが代わって王となった。エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが戦い取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダデの手から取り返した。すなわち、ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り返した。」

Ⅱ列王記13章20-25節

 

イエス様の死は、どこかの有名人や宗教家の死とはわけが違う。神様の御手の中に、ご愛の中に私たちは引き戻していただける。この御子イエス様のいのちにかけた愛の中でなされる神様の御心、御業は計り知れない。私たちは宗教をしているのではないことをもう一度思い起こし、神様の子の真実なる愛の中、歩ませていただこう。

 

さて、↑はエリシャという預言者が死ぬ、という場面、そして死んだ後に起こった驚くべき出来事です。エリシャは神様から、最悪の国家とかしていた北イスラエルに遣わされた預言者でした。代弁者、と言ってもいいでしょう。当時の国家は、アハブとイゼベルの最悪コンビによって、恐怖の支配を受けていた国家、その傷跡が残るところに遣わされました。

 

王たちが気に食わない、逆らう者たちを宗教行事の犠牲にし、豊穣と称して子供を火にくべ、淫行を強要し、気に食わないものは殺し、財産も簡単に没収。うその証言によってでっち上げなどありえない支配があった。そのアハブは死んでも陰で操っていたイゼベルは残っていたし、国の外には↑の後半にも登場するアラムにも苦しめられ、出口の見えない暗闇の中にいた。

 

でも神様は彼らを見捨てていなかった、だからこそこのエリシャが遣わされた。救いがどこにあるのか、彼を通して多くの奇跡を起こしながら神様の御業があらわされていった。それはもちろん民への救いのメッセージであると同時に、悪に走る王たちへの悔い改めの機会でもあった。神様の愛は本当に徹底されている。願わくば、滅びる事よりも命を得てほしい、それが神様の願いなのです。それはずっと列王記を見てきたから、わかると思います。そのためになされる神様の御業は、私たちの理解を超えた大いなることが起こるのです。

 

と、話は↑に進めて、エリシャが死んだとき、とんでもなく驚くべきことが起こりました。私もこの個所は何度も読み、何度か分かち合おうと思ってきていたのですが、なかなか理解できず…でも今日、はっと目が覚まされた。葬られたエリシャの骨に触れた死体が生き返り、立ち上がった。それは、エリシャがすごい人だった、のではなく、神様がすごいということなのです。

 

普通に考えたらあり得ない話ですよ。私もこれまでそんな話は聞いたことがない。人生生きてきた中で。つまり、これを起こされたのは神様なのです。神様が、エリシャが死んでもう、関係は終わり、エリシャに免じてこれまで面倒見てきたけど、これからは自分たちで頑張れ、とは言わず、エリシャの死を通しても神様は驚くべき御業を成され、神様はそれでもあなたがたを愛し、驚くべきことを成そうとしているんだ、そう訴えているのではないでしょうか。

 

骨に触れたら生き返ることが大事なんじゃない、その大いなる奇跡、驚くべき御業をやめることがなかった神様に、私たちは立ち返り生きる事、それこそが大事なのです。多分今でも、誰かすごい優れたクリスチャンの骨に死体を触れたら生き返る、ということはまずない。まあ何やら何百人も私は生き返らせたことがある、なんて言っている人もいるらしいのですが、私はその信ぴょう性というかその辺を信じない。なぜなら、そのやった人の名前がほめたたえられるようなことを神様が続けることは信じられないから。

 

もしそれが本当だとしても、その人が素晴らしいのではなく、神様が成され、神様が素晴らしい、神様の御名がほめたたえられ、神様に立ち返ることが大事。奇跡を信じても結局神様に立ち返らなければ意味がない。この神様に生きなければ意味がない。

 

神様がしたいのは、奇跡じゃない。イエス様も多くの奇跡を成されたけど、奇跡を見て、神様すごい、で終わるのではなく、悔い改め、この神様に生きる事、それこそが大事だったのです。民は、イエス様に奇跡を求めた。ローマ帝国を打ち破る王なる飯屋を求め、神の救い、罪からの救いは求めず、それをしないとわかったらイエス様を十字架に架け、死なせた。これは、私の求める神ではない、私の求める神は、私のために何でもし、何でも応える神、それをしないイエスは神ではない、と。

 

ただ、驚くべきことに、このクリスチャンたちの愛、行動は国を動かし、ローマ帝国が倒れる、キリスト教が国教化された。奇跡がローマを打ち倒したんじゃない、神様がこの福音を通して変えていったのです。

 

その迫害期に生きていたパウロという人はこのように手紙に書き残しました。迫害だらけにあっても、「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と。奇跡がないから神がいないんじゃない、神様がその御心を現され、働かれる、それをあなたが信じるか?それが大事。神様はいつでも動かれている、でもそれを信じ受け取るか、従うか?これこそが大事なのです。

 

十字架のことば、それは何かの格言ではない。神様が御子イエス様のいのちを私たちの津意味の身代わりに十字架にかかられ死なれた、しかしそれで終わらず3日目によみがえられたことによって、信じるすべての人に罪赦しと和解をなされる、救いそのもの、いや神様の愛です、この十字架に込められた。

 

このイエス様に死と復活によって開かれた墓、そこから、神様の御業、御心が大いにあらわされていく、その和解された関係において神様が驚くべきことをあなたの内に、あなたの周りにあらわされていくのです。

 

エリシャのゆえに、エリシャを通して約束された3度のアラムへの勝利(昨日の個所)を果たされたたとえ困難、出口が見えないような状況にあっても、神様の御業は尽きることなくあらわされていく。昨日の個所の言葉を借りるなら、その援護の矢、養いの矢、勝利の矢は絶え間なく打たれ、サタンを、世を、神様は必ず打ち破ってくださるのです。

 

御子イエス様にあってあなたは神様の御手の中に今日、取り戻された。私たちは今日、何を期待するだろうか?自分の望む奇跡を求めるか、結果を求めるか、それとも神様の御心、御国が建てあげられていくことを願うか?あなたはイエス様の死と復活によって、イエス様の死体、一部をもらったのではない、復活の命、イエス様のすべてをあなたはいただいているのです。

 

イエス様はおっしゃられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。イエス様のいのちという一粒の麦が死なれたことによって、私たちが豊かな実を結ぶことができる。あなたがこの命を受け取るなら。何かを失ったようで、私たちはこのイエス様のいのちをいただいている、この喜びに今日、生きよう、イエス様の結ばせる実によって今日、生きよう。