「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」
イザヤ書62章6-7節
神様は私たちに対して黙っておられない。だから私たちもこの神様に、求めつづけよう、探し続けよう、叩き続けよう。神様が閉ざされた墓をイエス様の復活によって開かれたのだから、私たちは大いにこの命の関係に期待し、従い、歩もう。
さて、イースターも終わり、いや正確には毎日私たちはイエス様の復活を喜び、毎日復活のイエス様を覚え、イエス様と共に歩むわけですから終わり、とかそういうことはないのですが、そのことを思い起こしているときに↑の個所が導かれた…ので、列王記に戻るのはもう一日お待ちくださいね。
話は戻して、↑の預言は預言者イザヤという人を通して神様が語られたことです。イザヤという人が生きていた時代はバビロン捕囚より前の話なのですが、↑の預言、回復はバビロン捕囚より先の話。イザヤ書というのは前半でイスラエルの罪に対する裁きを語っているのですが、後半に入ると、回復の預言が始まります。それはひとえに、↑、神様が見張り人となり、必ず回復の日を迎えさせてくださる、そういう約束に他ならないのではないでしょうか。
列王記をずっと分かち合ってきているので、イスラエルの民の惨状はよくお判りでしょう。民は神様を神様とせず好き勝手に歩んできている。神などいらない、と離れ、でも周りの国から苦しめられ…そして救いが来て、その繰り返し。神様は見捨てていない、それこそ↑のように、見張りとしてその城壁の上に立ち彼ら・私たちを見、また心配されているのです。民の嘆き悲しみを見捨てることができず、神様をある日求めてくるならその御手を伸ばし続けている。
当時のイスラエルの民も、また人もそうなんですけど、私たちは何か希望溢れる状況に「自分たちで作り出そうと」頑張る。神などいらない、私は私の好きなように着飾って、最高の状態にするんだ、と自分たちの思う。だからある程度の状態になると、それで満足する。でも、それは決して彼ら・私たちを支えることはできない。私たちの希望は、私たちが実現するのではなく、神様が実現してくださる。だからそれが本当の希望となるのです。
パウロという人は、最も大事なのは、信仰・希望・愛と、希望を挙げた。ある意味で私たち人間を支える3要素です。愛を受けずに子供が育つと、人はあっという間に死ぬ、という話を聞いたことがあります。人の愛は不確定です。しかし、神さまの愛は無償、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどにあなたを愛する、奉げつくす愛。これによって私たちは支えられ、生かされる。信仰、その神様を信じ抜く、信頼しつくす、この方にあって、この淫行にあって私たちは生かされる。そこに希望があるのです。希望は、希望的観測ではない、「神様が与える」からこそ、それは希望となるのです。
ちょっと話はそれましたが、私たちは本当に今、目に見えない恐怖、いつ終わるかわからないウィルス蔓延との戦いにあり、また疲れ果てている。そんなときに神を信じて何になる?と思う人も多いかもしれない。でも、それは人間の目で見た希望は、なかなか見えない。だって人間には限界があるから。でも神様は、違う。私たちの内に愛を実現され、御心を実現される。これを神様は注ぎたいのです。
列王記で登場したアハブ王、覚えていますか?イゼベルと組み、子供を火にくべ、淫行を強要し、国民の所有物が気に入ったから、といのちを奪い取って、それを奪う。とんでもない悪王。しかし、神様は何度も彼に悔い改めの機会、そのえせ宗教からの解放、イゼベルの支配からの解放、神様の希望、御心を彼の内にあらわしたい、と何度もその機会を示された、警告した。しかし最後まで、これを拒否し続けた。でも神様は黙っている神様ではないのです。行動したい神様なのです。
神様は、イザヤを通してなんであらかじめ、回復の預言とセットで裁きの預言もされていたのだろう。それは神様が、神様に立ち返るように、神様は城壁に立ち、見張り、彼ら・私たちを守るから、だから私のところに帰りなさい、どんなに様々な敵に囲まれようと、それは神様は重々承知、「見張っている」からわかる。あなたの痛みも全部知っている。神様はそれでも、人間的には希望が見えなくても、神様が回復に向け、その御手を伸ばし続ける、黙ってみているのではない、言い、言ったことを実現させる、その訴えがまさになされているのです。裁きの後に回復の預言をされたのは。私は、必ずそれを成し遂げる、とおっしゃられているのではないでしょうか。
神様は、ここ数日書いてきていますが、墓の扉を開かれた。イエス様を裁いて終わりではなかった。身代わりに裁いた。あとは好きにしなさい、と終わらせたのではない、その墓を神様の手で開き、復活を赦された。普通ではありえない、死を復活へ変えた、命へ変えた、奇跡の大逆転を神様は起こし、神様と私たちとの和解を成し遂げられた。神様の意思で、イエス様の前に立ち返るなら、イエス様を救い主として受け入れるなら、私たちは神様につながるその新しい命へと引き上げられるのです。
神様があなたのために、御子イエス様のいのちにあってその扉を開かれた。神様は今日、あなたに向けてその御子イエス様を差し出すほどの愛によって、あなたに希望を成し遂げようとあなたの帰りを待っている。
イエス様はこのようにおっしゃっています。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見出します。叩き続けなさい。そうすれば開かれます」と。与えるのは、出会ってくださるのは、開いてくださるのは、神様です。そこで神様はあなたに最善のものを備えられる。御子イエス様のいのちと共に聖霊様が、新しい助け主があなたの内に注がれ、導かれる。復活で終わりではなく、ここから神様との関係が、御子イエス様にあって、始まっていくのです。
「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない」。神様は、あなたを見捨てられないゆえに、天からあなたを見ているだけではなく、御子イエス様を人として生まれさせた、急使を送られた。黙ってみているのではなく、御子イエス様にあってその行動を起こされるかたです。
神様は黙っていない。だからこそ私たちも、黙っていてはいけない。この神様に祈り続けよう。その御心がなるよう祈り続けよう。何よりまず、神様を、神様の国とその義とを求めよう。祈り導かれたなら、行動に出よう。あなたが恐れず出ていくところに神様は御心を現される。外に出れなくても、あなたに与えられた神様の愛は伝えることはできる、現すことはできる。希望を語ることはできる、励ましを与えることはできる。
あきらめてはいけない。希望が出るのは、私たちの努力によるのではなく神様による。今日、私たちはこの希望を握りしめ、歩もうではありませんか。昼も夜も、神様はまどろむことはないし、行動に起こされている。私たちはこの神様に信頼し、歩もう。