「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた』という聖書が成就するためであった。兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」
ヨハネによる福音書19章23-30節
神の御子たるイエス様が十字架にかかられ死なれた。それは、御子イエス様を救い主として信じ受け入れる、私の罪の身代わりとなり死なれた、その救い主であると信じ受け入れるすべての人に永遠のいのちを与えてくださる。なんという恵み。今日はグッドフライデー。神様にとっては御子イエス様を差し出すということは一見バッドなはずなのに、あなたにグッド・ベストを備えることを選ばれた。今一度今日、イエス様の十字架の恵みを覚え、この命の内を歩もう。
さて、↑は神の御子たるイエス様は人となって生まれてこられ、ご自身の愛をさんざん現され、癒されてきたのに、群衆に裏切られ、イエス様と敵対する宗教学者・またローマ帝国に売り渡され、十字架にかかられるところです。
それにしても不思議なのは、イエス様はそんな裏切りを受けたのに、どうして私たちを救うことを選ばれ、天に投げ出して帰らなかったのだろう?神様も、どうして、イエス様の叫び、他の個所では「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになられるのですか」と叫んでも、イエス様がののしられ、鞭うたれようとも、イエス様を助けようとされなかった。どうして?どうして?
神様は、それでもあなたが滅びる事よりも、命を得ることを選ばれた。イエス様のいのちを救うよりも、あなたを救うことを選られた。私たちはこの神様の涙、父の涙、痛み、悲しみ、理解できるでしょうか?この十字架では、見えない背後で、父なる神様の「あなたへの涙、悲しみ」、御子イエス様への非常なる決断があった、このことを忘れてはいけない…そのことを覚えながら↑を見てみましょう。
イエス様は十字架にかかられた。その足元では、イエス様の着物をくじ引きで分けられていた。なんという他人行儀。あなたは、こんなふうになってませんか?十字架がただの宗教、他人事、私には関係ないって。でも、イエス様の、父なる神様の思いを忘れてませんか?神様は真剣、あなたを救うために払う代価はとんでもなく大きい。
そんな彼らを見てイエス様は何を思ったのだろう?「お前たち、私が真剣に愛して、これだけのことをしているのに、何をしているんだ!」と叫びたくなるでしょう、普通なら。イエス様は黙って見つめていた…身勝手で、イエス様の救いさえ他人事のようにしか考えられない私たちを。むしろ、そのままにされた。ご自身の着ているものを、イエス様の所有物をそのままに分け与えていたのです。
イエス様は惜しみなかった。惜しむくらいなら、とっくに私たちを見捨てて天に帰っている。十字架から降りたら信じてやるよ、と言われ、なら降りてお前たちを見捨てて帰るわ、とすることだってできる、でも黙っておられた。
いや、むしろ↑の個所には出てきませんが、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願し続けてくださったのです。どんなに苦しくても。神の御子でも、人間となったイエス様は痛みがあります、血も流れます。あなたが背負うべき罰を一手に引き受けてくださった、あなたが追うことがないようにって、全部背負われ、身代わりになられたのです。むしろ、あなたに神様の、イエス様のいのちを分け与えるために。すべてのものを。
神様の家族として受け入れて。そう、↑で、母マリヤを、弟子ヨハネに、この人がお母さん、といった、それは、面倒見てね、という意味合いだけじゃない、イエス様の御名によって救われたなら、皆家族となる。兄弟、姉妹となる。まあもちろんそういう意味で互いに支えあう、という点においては同じ。でも、私たちを神様は、罪の奴隷、死刑囚として見るのではなく、この神様の家族、子として私たちを招き、ご自身の着ているもの、命と一緒にすべてをあなたに分け与えるのです。あなたが失われていくことに魂が渇いていたんです。なぜあなたがサタンの手に、罪の内にとらわれなければいけないんだ、とあなたの帰りを。
イエス様は最後、「完了した」とおっしゃられた。この人たちを救うにはまだ足りない、とはおっしゃらなかった。この命、神様の愛から分け与えられるものに、いのちに、不足はありません。他人事にように十字架を見て、こんなものが私のなんの役に立つんだ?と自分の飢え渇きを満たすことを私たちが求めても、このイエス様の十字架による救いの内にしか、満たすことはできない。神様が、イエス様のいのちを惜しまず与えた、涙を飲んで、あなたを救うことを選ばれた神様の救い、このイエス様の愛ゆえに、あなたを神様は今日、保証され、ご自身の内にあるすべてを与えられる。
御子イエス様のいのちを涙を飲んであなたに差し出した。今日、あなたはこの愛をどう受け取るだろうか?このイエス様のいのちがあなたに今日、差し出されたのです。あなたは、それはもう終わったこと、神との関係はわたしには関係ない、としてないだろうか?私たちはこのイエス様のいのちを今日、いただこう、いただいていることを今日もう一度覚えよう。あなたと関係ない、と切り捨てるのではなく、あなたと関係あるものとなるために、御子イエス様を差し出された神様が「完了した」ここに全部備える、と決めたこの救いのうち、命の内を今日、歩もう。