「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる。ヤワンはあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする。主は彼らの上に現われ、その矢はいなずまのように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。万軍の主が彼らをかばうので、彼らは石投げを使う者を滅ぼして踏みつけ、彼らの血をぶどう酒のように飲み、鉢のように、祭壇の四隅の角のように、満たされる。その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。」
ゼカリヤ書9章9-17節
神様は、約束を必ず果たされる。いった言葉はむなしく帰ってくることはない。口であいまいなことを言う、希望的観測を語るのではなく、その思い、愛を実行に、行動に移される。イエス様を人として生まれさせ、あなたの内に命をもたらすべく。あなたはこのイエス様をどう受け入れるだろうか。
今週は、受難週と呼ばれる期間に入りました。私たちが負うべき罪の代価、またその呪いを引き受け、十字架で死なれる。神の御子であられるのに。イエス様は、私たちに救いをもたらすために来られた。↑の預言が成就する今から約2000年前もそうだった。しかし、群衆は最初は受け入れるも、その手のひらをすぐに返し、イエス様を十字架に架ける、というとんでもないことをした。にもかからず、イエス様は十字架への歩みを止めなかった。驚くべき愛です。
そのイエス様に神様はどんな思いを込められたのだろう?その一つが↑の預言に見えます。↑はバビロン捕囚から解放されたイスラエルの民に語られた預言です。彼らはバビロン捕囚から解放されても、現地住民の妨害や、敵に繰り返し襲われ、本当に疲れ果てていた。
でも、神様はゼカリヤという人を通して未来の預言を語られた。神の御子イエス様が、あなたがたのもとに来る、と。民としては、今我々は助けが必要なんだ、未来を語って何になる?今私に必要なワクチン、救援物資をくれよ、そう訴えたかったかもしれない。
これ、私たちも陥りやすい。我々が今欲するのは神ではない、今現実に応える「物」っと。自分の思う通りのものが、状況が与えられないなら神など役に立たない、と、まあ高慢になりやすい。じゃあ、神様は彼らの今、私たちの今について何も思っていないのだろうか?私はそうは思わない。
もし、神様が彼らを、身勝手で、せっかく捕囚から解放されても、今は神様神様言っている場合じゃない、と神様から離れる彼らを見捨てているなら、どうして未来を語るだろう。もうあなたがたは終わり、あとは好き勝手にすればいい、と思うなら、その御手を伸ばすつもりがなければ、ゼカリヤを通して神様は語ることはないでしょう。でも、神様は私たちをこの神様の計画しておられる御心に、導きたい、彼らが、私たちが参加するのを待っておられるのです。
今緊急事態宣言云々の話が出ていて、緊急事態宣言が出たら何かする、だから早く出してほしい、という話を聞くんだけど、緊急事態にならないと、状況が悪化しないと何もしないの?今すべきことはないの?と思う。同じように、私たちは今こそ、神様に立ち返る、というまずすべきことがあるのではないだろうか。神様なしに生きる状況に緊急性を私たちは感じていますか?
だからこそ神様は、神様はそれを緊急、あなたが滅びてほしくない、命を得てほしい、とイエス様を遣わされた。神様は預言者を通して↑の様にやがてイエス様が来られ、平和をもたらす、とらわれ人の釈放を…と語っていくわけですが、それは私たちを愛しているからです。今も神様は現在進行形でその御心、未来に向けて動かれている。なぜ、予め預言されるのか?それは神様は今、私たちの内にその御手を伸ばされているからです。彼らをそのように覚え、導こうとしている、それだけの計画を持っている、だからこの神様の計画、神様と一緒に進もうよ、そう招かれているのです。
神様はゼカリヤを通して「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる」と未来について語られた。真の王が来る。でも未来、でも今大いに喜べ、と。何を大いに喜ぶんですか?イエス様が来られること、救いが、王が来られることが、そうです、その通りです。でもそれ以上に、あなたのために王を遣わされる神様があなたと共におられ、その計画を現そうと今しているんだ、だから、今その時が迎えられていなくても、あなたは大いに喜べ、そういうのです。その神様があなたと共に今いる、その御心へと導かれるから。
今暗闇の中に↑のゼカリヤの時代にあることは神様は重々承知です。喜べない状況にあることも。私たちのこともご存知です。でも、神様は「大いに喜べ」る状況に導かれる、一緒に泣き、一緒に笑うその日をもたらすのです。今、神を信じて何になる?何をもたらすの?と不安になるかもしれない。今から約2000年ほど前に、ロバに乗ってきた神の御子をどうして救い主と考えられるだろう?民は落胆し、イエス様を切り捨て、裏切り、十字架に架けた。こんなものは私の望んでいた神ではない、救い主ではない、と。
しかしイエス様は、「ロバ」に乗って平和をもたらしにこられた。神様とこうして敵対関係にいる私たちと神様を和解させ、平和をもたらすために「ロバ」に乗ってこられた。あなたを迎えに来られたのです。一緒に歩もう、とあなたのところに来られた。神様の平和をあなたの内にもたらすために。イエス様の砦、その家に招き、ここに生きよ、一緒に生きよう、私が養う、と悲しみ、苦しみ、暗闇、罪のうちから引き上げるために。
どこか遠いところにそのイエス様の住まいを設けたのではなく、あなたの内に、その住まいを設けられた。通いじゃない、一緒に住まわれ、一緒にこの暗闇の世から、世の終わりまで共に生き導く、様々な試練の中にもイエス様の御心を現そうと、あなたを招かれたのです。
それはすぐには様々解決しないかもしれない、思う通りには。でも、イエス様が一緒におられる。これ、あなたは喜びますか?大いに喜びますか?イエス様は、あなたを神の子としての冠を脱がれ、私たちの罪の代価となるし・いばらの冠を身代りにかぶられた。そしてあなたに神の子としての王冠をかぶせようとされた、交換された。あなたのいのちと神の御子としてのイエス様のいのちが交換されたのです。十字架上で、どんなに裏切られようとも、父なる神様に、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願された。
そのイエス様のいのちにあって取り戻されたのがあなたなのです。終わり、遅すぎる前に、私たちはこの救いをいただきましょう。イエス様は一日も早くあなたに救いをもたらし、一緒に生きよう、あなたの内に御心を現そうと帰ってくるのを待っておられる。神様は、あなたのためにイエス様のいのちという最大のワクチンを備えられた。今日、私たちはこの方にある罪の赦しと和解、本当の幸せをいただこう。そして大いに喜び、ロバに乗ってこられたイエス様と一緒に歩もう。神様に振り上げたこぶし、剣をおろし、イエス様自身を受け取りましょう。ここから、本当の平安が始まる。