「…そして、エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていた者全部、身分の高い者、親しい者、その祭司たちを、みな打ち殺し、ひとりも生き残る者がないまでにした。…彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。『私の心があなたの心に結ばれているように、あなたの心もそうですか。』ヨナダブは、『そうです』と答えた。『それなら、こちらに手をよこしなさい。』ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、『私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい」と言った。…エフーは民全部を集めて、彼らに言った。『アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。だから今、バアルの預言者や、その信者、および、その祭司たちをみな、私のところに呼び寄せよ。ひとりでも欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルにささげるつもりである。列席しない者は、だれでも生かしてはおかない。』これは、エフーがバアルの信者たちを滅ぼすために、悪巧みを計ったのである。…エフーとレカブの子ヨナダブは、バアルの宮に入り、バアルの信者たちに言った。『よく捜して見て、ここに、あなたがたといっしょに、主のしもべたちがひとりもいないようにし、ただ、バアルの信者たちだけがいるようにしなさい。』こうして、彼らはいけにえと、全焼のいけにえをささげる準備をした。エフーは八十人の者を宮の外に配置して言った。『私があなたがたの手に渡す者をひとりでものがす者があれば、そのいのちを、のがれた者のいのちに代える。』全焼のいけにえをささげ終わったとき、エフーは近衛兵と侍従たちに言った。『入って行って、彼らを打ち取れ。ひとりも外に出すな。』そこで、近衛兵と侍従たちは剣の刃で彼らを打ち、これを外に投げ捨て、バアルの宮の奥の間にまで踏み込んだ。そしてバアルの宮の石の柱を運び出して、これを焼き、バアルの石の柱をこわし、バアルの宮もこわし、これを公衆便所とした。それは今日まで残っている。このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。」
Ⅱ列王記10章1-29節
私たちには様々な戦いがあり、レースがある。今の日本も先の見えない戦い、コロナから来る不安や恐れ、死もまた身近に感じる。でも、私たちはイエス様と一緒にこの戦いを、コロナだけじゃない、世の悲しみ、痛み、罪・サタンの支配するこの戦いを駆け抜けよう。やがて私たちは勝利の日を迎える。その日、涙も悲しみも、病も一切過ぎ去り・新しい私たちは命の内を歩ませていただける。
さて、↑は途中穴抜けになっていますが、全部まともに読むとおっくうになるほど凄惨な箇所。アハブ王朝側に立ってみると。しかし、エフ―は神様が遣わしたものであり、今北イスラエルがアハブ王朝によって不安と暗闇に支配されている、その中に神様が遣わされた、そのことを覚える時、私たちは希望を得るのです。なぜなら、↑の個所はサタン・罪の勢力からしたら裁きの時、しかし、そのうちに支配されたイスラエル、また私たちからしたら救いと解放、再生・再建の日なのだから。
ということで↑に話は進めて、↑より少し前、アハブという王とイゼベルという王妃がこの国を絶望に陥れていました。自分たちの気に食わない民を豊穣のための宗教行為と称して淫行を強要し、子供を火にくべ、国民のものが気に入れば、国民を殺してでも奪い、逆らえばなお殺す…とんでもない罪を国に犯し、彼らにもはや逆らえず絶望下に民はいました。しかし、ついにエフ―を通して彼らを支配するアハブ王朝に神様は終焉を告げたのです。民をむしばみ食い尽くす、神様のいのちを奪おうとするこの暗闇を完全に↑で打ち破るのでした。
それにしても、その裁きは徹底していますが、↑の続きで神様はこのように語りました。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行なった」と。これは神様の御心だった、というのです。
じゃあ神様の思いはどこにあったのだろう?神様は、完全に罪と聖を分けられた。聖別っていうんですけど、それをなされる。エフ―は神様に逆らい、また北イスラエルを支配している罪と、そこからイスラエルの民を分けた。救い出された。それは、彼らが、私たちがこのサタン・罪の支配の中にいることをよしとされず、その裁きから取り分けられたのです。神様のいのちの内に招かれたのです。神様を求める人たちを、その苦しみ・悲しみ・痛み・絶望…様々な罪の呪いの内に閉じ込めたくなかった。神様の憐みによって救い出されたのです。
エフ―の行為の内に神様が表したかったのは、残虐性じゃない。義による憐み。あなたのうちに、これらの暗闇が追いかけ、支配することがないよう、二度と彼らを苦しめることがないよう、これらを、罪を根絶されたのです。罪人に対しては憐れみを示された。アハブ王朝にもですよ?神様は何度も何度も彼らに救いの機会を示されてきたのですから。そして取り出して、神様のいのちにあって新しい王朝・御国・神様の愛によってこれを建てあげようとされていたのです・
神様は、最後、完全にサタンを滅ぼしつくし、私たちをそこから切り分けられ、ご自身の内に引き入れられる、完全な勝利の日を迎えさせてくださります。今この世にあっては様々な罪の呪いが残っているし、私たちを思い悩ませる、追いかけ、支配する不安、悲しみ、様々なものがあるでしょう。今世界的に見てもコロナ問題なのでとんでもない暗闇に包まれている。
しかし、神様はこれを放置されない。神様から離れ、好き勝手に北イスラエルの民だって生きていた。でも神様はそれでも見捨てなかった。アハブたちの元にも悔い改めの機会を示され、北イスラエルにも、今エフ―を神様は遣わし、救いの時とされたのです。その神様は今も私たちを覚えておられる。確かに試練や戦いはあるかもしれない。しかし神様があなたを引き寄せ、共に勝利する日へと一緒に導いてくださるのです。いかなる問題も。コロナにさえもそうだと私は確信します。
神様はまだ最後の日を告げていない。やがてでもその日が来るけど。今も、私たちがこの暗闇から取り出され、神様のいのちの元に帰り、生きる、命を得る、神様の御心によって生かされることを何よりも願っておられる。私たちをこの勝利の行列・神様の行進に加えてくださる、神様の勝利の道、その導きの内をともに進ませてくださるのです。「私の心があなたの心に結ばれているように、あなたの心もそうですか」と尋ねられたヨナダブがこの勝利の道に導かれ、加えられたように。
イエス様は、私たちのような好き勝手に歩み、勝手に暗闇に歩むようなものさえ見捨てず、私たちの心を、私たちをご自身に結び付けるべく、私たちの身代わりに十字架にかかられ死なれた。あなたの痛みを我が事として。全ての痛みも悲しみも病も、何より罪の代価を一切身代りに背負われ十字架で身代わりに罰せられ、死なれた。
しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の前に罪を悔い改め、救い主として信じ、その手を取る時、私たちも神様の子として引き上げられる、復活の恵みにあずかり、神様が私たちを再生・新しく作り直し、建てあげてくださるのです。
イエス様は今日、私たちをこの暗闇からとりわけ、神様の子として招かれている。光の内に。イエス様の心はあなたの心に結ばれている。イエス様があなたの内にご自身の心を、御心を現される。だからこそ、私たちはエフ―が最後離れていったようにではなく、最後まで、イエス様の心を我が心とし、イエス様と歩み続けよう。イエス様があなたの内の暗闇も罪も打ち砕かれるから、もう振り返らず、イエス様にある勝利をつかみ取ろうではありませんか。