「エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダデは病気であったが、彼に『神の人がここまで来ました』という知らせがあった。王はハザエルに言った。『贈り物を持って行って、神の人を迎え、私のこの病気が直るかどうか、あの人を通して主のみこころを求めてくれ。』そこで、ハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せ、贈り物として携えて、彼を迎えに行った。彼は神の人の前に行って立ち、そして言った。『あなたの子、アラムの王ベン・ハダデが、【この病気は直るであろうか】と言ってあなたのところへ私をよこしました。』エリシャは彼に言った。『行って、【あなたは必ず直る】と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。』神の人は、彼が恥じるほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、ハザエルは尋ねた。『あなたさまは、なぜ泣くのですか。』エリシャは答えた。『私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたは、彼らの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くだろう。』ハザエルは言った。『しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう。』しかし、エリシャは言った。『主は私に、あなたがアラムの王になると、示されたのだ。』彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰った。王が彼に、『エリシャはあなたに何と言ったか』と尋ねると、彼は、『あなたは必ず直る、と彼は言いました』と答えた。しかし、翌日、ハザエルは毛布を取って、それを水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。」
Ⅱ列王記8章7-15節
神様は無機質な存在ではなく、喜怒哀楽あり、私たちの存在を喜ばれ、その喜びの存在であるあなたの魂を奪うサタン・罪には怒り、滅びゆくあなたを悲しまれ、涙を流される。その悲しみゆえに行動を起こされる方です。そして取り戻されたあなたを喜び楽しむ。私たちは神様の涙の行動に応える者でありたい。
さて、↑は紀元前北イスラエル王国と対立するアラムにあった出来事。イスラエル王国はヨラムが王。北イスラエルは彼の父、アハブの悪政によって国は疲弊しきっていた。豊穣を願うため、と称して淫行を強要し、子供を火にくべる、欲しいものを国民が持っていれば、脅して奪い取り、譲ってくれなければ殺す。そんな最悪な思考を持った夫婦が王として治めていたため、国は非常に疲弊しきっていた。
一方、そのイスラエルを囲むアラム。アラムはアハブの支配によって抑えられていた。しかしある時アハブに反旗を翻し、アハブを討ち殺すのでした。これは神様の助けによったし、今こそ神様のもとに立ち返るチャンスでもあった。
そんな中、アラムの王、ベン・ハダデは病気になっていた。イスラエルを攻めるアラムの王、そんなものは放置してもいい。そう思いたいところ。私たちだってそう考えることありません?自分をひどくする人などどうにかなればいい、って。しかし、神様は癒す。
ベン・ハダデ王は、自分の国の医者や、宗教家に尋ね求めるのではなく、神様の遣わされた、真の神様の遣わされたエリシャのもとに、若者・ハザエルを遣わすのです。自分は治るのだろうか?と藁をもすがる思いで、「エリシャ」のもとに、恥を忍んで遣わした。敵国に縋り付く?そんなことは王としてはあり得ない。しかし、彼はプライドなどかなぐり捨てて、エリシャを遣わした神様に縋り付いたのです。
神様は、ご自身に縋り付く、求める、立ち返る人を喜んで迎えられます。私、昨日の個所もそうですが、このプライドをかなぐり捨てでも神様に縋り付く、この姿勢はとても大事だと思います。
その彼を、敵国の王であるとわかっていようと、イスラエルを苦しめる国の王であるとわかっていても癒される、治る、とハザエルに伝えるのでした。結果、アラムの王を抑えることによって、イスラエルの民も神様がこの苦難の中にあって守られていることを知り、神様に立ち返る機会となる。ベン・ハダデ自身も神様の憐みを受け、そのうちに生きることを赦されたのです。
ただ、残念なことに、ベン・ハダデは、今来たハザエルによって討ち殺されることを神様から同時に知らされました。このことをエリシャはとても悲しんだ、涙を流した。敵の王が死ぬ、それほどいいことはないじゃないか、と普通は思う。でも、エリシャは神様が遣わされた、彼の内に神様のご意思は表される、まさに神様の涙そのものだったのです。
神様に立ち返ったものに、もはや敵も何もない。その人は神様の恵みを受ける。それなのにそのような悲しみに向かうことを悲しまれたのです。それは人はいつか死にますよ?でも私たちが苦難の中にあることを、どうして神様は涙を流さずにいられましょう。神様は無機質な神様じゃない、感情がある。神様はあなたが苦しみの中にいる、留まっていることなど我慢できないのです。
だからこそなのかな、ハザエルに、ベン・ハダデ王を殺し、王になることを告げる。神様のおかげで王になるにもかかわらず↑に見るようなとんでもない暴挙に出ることを告げた。あらかじめなんで告げたんだろう?これは私の感じるところですが、この忠告を通して彼がこのことを辞める事、神様の恵みに縋り付き、生きることを願っての事ではないか、と思う。
神様は愛の神様です。でも、時に聖書を読めばわかるかと思いますが厳しいことをおっしゃられます。どうして?愛なら優しいことだけを語ってよ?違う。私たちが命を失うような状況になることを望みますか?愛しているなら。イエス様も当時の宗教家たちにすごく厳しいことをおっしゃられた。それは彼らが悔い改めることを願っての事ではないか。十字架にかかることは決まっていた。彼らに殺されることを知っていた。それでも、彼らが悔い改め、命を得るために、心を震わせ、こぶしを握りながら、涙を流し、訴えたのではないか、と私は思う。
ハザエルにも神様はその御手を伸ばされていた。自分は犬に過ぎない、そうじゃない、神様の恵みに縋り付く、神様に縋り付き、犬ではない、神様の子・家族として招かれる。この世の、自分の欲する欲に縋り付き求めるのではなく、神様が彼の内に展開される御心を待ち望む、そのような王となることをあらかじめ警告し、そのような王ではなく、神様の御心が彼の国にあらわされる王となることを何より願ってその手は伸ばされたのではないだろうか。私たちが不安、自分が握りしめているものから離れ、神様のもとに留まる、神様がその幕屋を広げ、養われる場所に留まることを何より願っておられるのです。残念ながらハザエルはこの後惨殺され、イスラエルはちなみに救い出される。神様は確かに神様に縋り付くものを守られたのです。
神様は、御子イエス様を遣わし、その天の窓を開かれ、私たちと和解するため、その幕屋のすそ野を広げ、あなたを神様の家族へ、死にゆくものから神様の養い、御国の中に招くため、イエス様を十字架に架け、身代わりに罰せられたのです。ベン・ハダデの病、私たちの師に行く病・罪・死を身代りに背負われ死なれ、3日目によみがえられ勝利された。もはや私たちは神様の敵対者ではなく、神様の子とされ家族に招き入れられたのです。私たちはハザエルやベン・ハダデではない、でもそのイエス様のいのちにあって取り戻された、そのあなたの内に神様の御心を、御国をイエス様が住まわれることによって展開されるのです。
神様はあなたを失わないため、あなたと共に喜びの涙をその目から流す日を考え、行動された。いのちがけで。今日、私たちはこの神様の涙にどうこたえるだろうか?それでも神様を殺す、神様の御心から離れ、この世のサタンに・罪にとらわれ生きるか?それともイエス様のいのちが、御心が展開される救いを、いのちに縋り付き歩むか?私たちは、私たちのもとに遣わされたイエス様に縋り付き歩もう。どんな時も。この暗闇の世にあって真の光なるイエス様に何が何でも。やがて「神様が」開ける朝を喜びの涙と共に迎えることを信じて。