―最悪な事態にあってまずすることは…― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「この後、アラムの王ベン・ハダデは全軍を召集し、サマリヤに上って来て、これを包囲した。そのころ、サマリヤには、ひどいききんがあった。そのうえ、彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、ひとりの女が彼に叫んで言った。『王さま。お救いください。』王は言った。『主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか。打ち場の物をもってか。それとも、酒ぶねの物をもってか。』それから王は彼女に尋ねた。『いったい、どうしたというのか。』彼女は答えた。『この女が私に【あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう】と言ったのです。それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に【さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう】と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。』王はこの女の言うことを聞くと、自分の服を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は服の下に荒布を着ていた。彼は言った。『きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。』エリシャは自分の家にすわっており、長老たちも彼といっしょにすわっていた。王はひとりの者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。『あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのをご存じですか。気をつけなさい。使者が来たら、戸をしめ、戸を押しても入れないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。』彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。『見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。』エリシャは言った。『主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。【あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。】』」

Ⅱ列王記6章24-7章1節

 

神様に祈ることは宗教行為ではない。あなたと神様をつなげてくださるものであり、これはイエス様のいのちという代価にあってあなたと神様をつないでくださっている。このイエス様にあって結ばれた関係を軽視せず、いつもいつも神様を求め、ゆだね歩もう。

 

さて、↑は紀元前、北イスラエル王国をヨラム、悪政の限りを尽くしたアハブの息子が統治していたころ、そのアハブを討ったアラムがイスラエルに攻撃を仕掛けてきていました。その状態はもう、絶望の限りを尽くしていました。

 

ただでさえ、アハブの悪政によって国は疲れ果て、傷も癒えていない。豊穣のためと称して子供を火にくべ、淫行を強要し、国民の所有物を見た王が気に入ったときはそれを奪い、逆らえば殺される。で、そのアハブを陰で操るイゼベル女王はまだ院政を引いている。そんな不信感極まりない中、さらに、今内側にも、全ての価格が暴落するほどの飢饉が起こり、外からも敵が攻めるという危機が迫っていた。

 

何か、今の日本のコロナ問題なんかすっ飛ぶくらいありえない危機的な状況でした。ちなみに1シェケルというのは11.4gだそうです。飢饉という問題で生活がままならない。高すぎて手が出ない。食べるものがない。さらには外からは敵がかこっているため、逃げる場所がない。

 

さらに、↑の女性の言葉、信じられますか?「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう』と言ったのです。それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです」。あまりの空腹に自分たちの子供を食べる?なんだそれは?

 

これを聞いた王は、最初は神様以外は助けることができない、と言っていたのに、この話を聞いたら、この責任はエリシャにある。エリシャを殺せ、というのです。エリシャがアラムの居場所をつかんでここまで何とか持ちこたえていた(神様が教えてくださっていた)にもかかわらず、この責任は、エリシャにある、と。エリシャは神様が遣わしたわけですから、要するに、こうなったのは神が悪い、そういうことなのです。彼の言いたいことは。

 

でも、神様が何もしない、じゃなくて、その前に彼らは神様を求めることを何もしてなかった。むしろ神様から離れていた。神様は救いの準備万端、と↑の一番最後を見てもわかる通りです。あらゆる問題に囲まれた、その今こそ彼らは立ち返るべき時だったのです。神などいなくても生きていける、神に祈る、求めるなんて馬鹿げている、と離れて歩む、そこから。それは私たちにも言えることではないか、とこの個所を読みながら私も恥じ入るばかりです。

 

エリシャは、「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる」というように、まず自身が祈り、神様の言葉を聞いた。今物価大暴落の中で、↑のようなことを神様に告げられた。誰が信じられるか?でも、彼はこう神様が仰せられているのだから、ただ聞くだけではなく、信頼し、一歩踏み出そう、神様の御業を待ち望もう、と声をかけるのです。聞いても馬耳東風では意味がない。神様の約束を受け取りにいかなければ意味がないのです。

 

ふと、この前先輩牧師の説教を聞いていた時に知ったのですが、アメリカで新型コロナが今爆発的な状況が起こっている中、ペンス副大統領がその対応に任命されたそうです。その時、彼は何をしたのか?一番最初にしたのは、副大統領執務室にこもって、メンバーと共に祈ったそうです。専門家たちを集めて対応策を考え、話し合うのではなく、まずひざを折って祈ったそうです。メディアは、共和党は科学や医学ではなく祈りによって癒そうとしている、と馬鹿にしたそうです。

 

しかし、神様に求めることは、祈ることは、非現実的な事なのでしょうか?神様の愛は非現実的ではない。神様が何もできないはずがない、と私は思う。この時に神様は何かを成そうとして、今エリシャを遣わしていたように、神様は今こそ私たちに神様に立ち返り、神様の御心が、御力があらわされる、神様にあって、神様の御心を求め生きることを願っているのではないか。聖書が非現実的だから聞いても無駄?祈っても無駄?とんでもない、神様はその愛を現実にあらわされる。

 

事実御子イエス様を、こんな私たちのためにさえ、人として生まれさせ遣わしてくださった。神様のまま、何の苦労もなく、ではなく、人と同じ重荷を負って。同じ苦しみの中に降ってこられ、愛を現された。具体的に私たちの現実の中に神様の御心を現しながら癒され、その道を示されていった。

 

でもそこで終わらず、私たちを囲う最大の問題、罪を、これを打ち払うべく、内側に魂を、イエス様のいのちで満ち溢れさせるために、私たちの罪を身代りに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられ、あなたを囲うサタンも罪も全部打ち砕かれ、神様と和解させてくださった。あなたにこの御子イエス様のいのちが、このイエス様のいのちと共に神様のすべての恵みがあなたに与えられるのです。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたを養い導く。神様の御心が、愛が、あなたのいのちを、この新しい命を形作っていくのです。世の目から見たらそれは非現実的でも、神様の目からそれは現実です。

 

今日、あなたを覚えイエス様を命を懸けて遣わされたこの神様の愛に目を向けよう。心を向け祈ろう。耳を傾け、聴こう。聞いて終わりではなく、これを受け取り、これに生きよう。神様の御心が形作ってくださる新しい命の道を。イエス様こそ道であり、審理であり、命なのですから。