―目には見えないけどそこにある・いる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。『これこれの所に陣を敷こう。』そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。『あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。』イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。『われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。』すると家来のひとりが言った。『いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。』王は言った。『行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。』…彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、『ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう』と言った。すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから』と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。『どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。』そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。『こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。』こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。『主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。』主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真ん中に来ていた。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。『私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。』エリシャは言った。『打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。』そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」

Ⅱ列王記6章8-23節

 

目に見えないけど確かにある。それは神様。明日も、見えないけど、神様は備えて下さり、またそこにいる。私たちは目に見えるものの大きさにおののくけど、もっと大きな神様を見よう。神様は驚くべき明日を拓かれるから。

 

さて、↑は紀元前北イスラエルに起こった出来事。時の王はおそらくヨラム。アハズヤかもしれないけど。いずれにしても二人の父アハブがアラムに殺され、なお今、アラムに迫られ攻撃を受けていた。ここ数日の投稿から平和な国になっているようで、目に見えない恐怖はまだ残っていた。

 

↑の出来事もそうなんですけど、そんな苦難の中、これまで見てきたようなエリシャの奇跡があったそれを、神様の働きとして、今自分たちの内に神様が御業をなさろうとしている、その御心を現そうとされている、と信じるか、それとも、アラムとの戦いという苦難とを切り分けるか、これは大きなポイントです。

 

今イスラエルはアラムの大群に囲まれていました。現実問題、2代前の彼の父、アハブ王は子のアラムによって撃ち殺されている。あの偉大と思っていた父が。国を守ると思っていたバアルも何もできなかった。一体どうしたらいい?しかもアラムはありとあらゆる場所に陣を敷き、もう逃げ場もなかった。

 

しかし、逃げ場がない、すきもない、という中にあって、それは神様の目には関係がなかった。神様はエリシャにその状況を幻で見せてか、語られてか、アラムのいない場所をおしえ、常々、この試練の中を乗り越えていった。

 

でもそこで終わらない。エリシャの存在に築いたアラムの王は彼をとらえようとしますが、エリシャはその大軍を見て恐れおののくも、エリシャは何も恐れません。なぜなら彼は、神様が今、大群、その御心をもって彼を覆って、囲い、盾となってくださっている、神様が一緒に、自分と共に戦ってくださっていることを、目には見えなくても体験的な交わり・神様との交流の中で見ていたのです。これまでも神様は御業を現し、多くの奇跡を見せてきてくださった。神様は今この時も一緒なんだ、何を恐れる必要があるんだ?と。神様の助けは、大群に見えるアラムの数よりも多い。量より質、な側面と同時に実際に神様のあなたへの愛の大きさ、あなたへの計画の大きさは、味方は、数限りないのです。

 

そして、ついにエリシャを通して神様はアラムに勝利を治めさせてくださった。でも、その結末はとても驚くべきものでした。アラムの目をくらまし、捕えた。さあ、王の仇、勝利のチャンス、という中にあってエリシャはなんと、飲み食いさせ、今目の間に来ている敵を養い、主君のもとに帰らせたのです。信じられますか?

 

神様からしたら、彼等を打ち滅ぼすのは簡単。でも彼らの中に、3日前の夜に投降したナアマンもいる。神様を信じる人、また救いを求めさまよっている人もいるかもしれない。彼らが失われることを惜しんだ、彼らに悔い改めの機会を与えたのではないか、と思う。神様は実はこの先、アッシリヤ帝国にも食いああための機会を与え、裁きの機会を一度止めたこともありましたし。

 

それにアラムの主力を討ったらまた反撃が来るかもしれない。しかし、彼等はこの憐みを受けた時、もうイスラエルを攻めることはやめよう、と戦いが終わった。平和に。誰も想像もしなかった、驚くべき結末、明日を迎える事となっていたのです。これまで目に見えた大群、恐怖に囲まれ押しつぶされそうになっていた中にあって、神様は信じられない方法で勝利を治めさせてくださった。信じられない明日を拓いてくださった。そこにはもはや侵略隊は攻めてくることはできなかった。

 

イエス様はこうおっしゃられています。「自分の敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子供になるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせるのです」と。

 

何を祈るんですか?この問題をあなたの御心のままになしてください、と委ねることです。神様はその問題よりも大きい。コロナだろうが、人間関係だろうが何だろうが神様の方が大きい。今目の前に結果がなくても、神様はおられる。神様はその中に義の太陽を昇らせ、輝かせ、恵みの雨を注ぎ、その迫害する、敵、問題が神様の御心によって造りかえられていくのです。

 

私たちは一人ではありませんよ?私たちは神様の憐みによって、本来神様から離れ、裁きを受けるはずのものだったのに、その食事を備えられ、命を得た、本当の主君である神様のもとに帰ることが赦されたのです。御子イエス様のいのちという食事が。イエス様が十字架にかかられ、死なれ、屠られた、その御からだを、自分の罪のために割かれたものとして受け入れるなら、あなたは永遠のいのちを得る。神様の子とされる。今このイエス様のいのちと共に神様があなたと共におられるのです。

 

目に見えない明日は御子イエス様があなたの内に住まわれ、開かれる。このイエス様と歩む中にあって、あなたのいのちをもはや追いかけ侵略することなどできない。今日、このイエス様のいのちを、憐れみをいただこう。目には見えなくとも現される神様の愛、御心を大いに期待し、また祈り求め、歩もう。