―望みどおりか、それ以上を求めるか?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。『もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。』それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。アラムの王は言った。『行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。』…イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。『私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。』神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。『あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。』こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。『ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。』しかしナアマンは怒って去り、そして言った。『何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。』こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに【身を洗って、きよくなりなさい】と言っただけではありませんか。』そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」

Ⅱ列王記5章1-14節

 

私たちは神様に目に見える結果を求める。でも、私たちが望むレベルだけを求めてどうしますか?私たちは神様の御心、私たちのお心ではなく、神様の完全なる栄光があらわされることを祈ろう。あなたの疲れ切った心も罪に汚れたすべてをも洗い流し、神様は驚くべき新しいあなたへと導こうとその御手を伸ばされているから。

 

さて、↑は古代イスラエル・北イスラエル王国の出来事ですが、これより数十年前からアラムとの戦いは続いている。しかも、↑に登場する癒やしを受けるナアマンはなんと、そのイスラエルの敵国であるアラムの英雄・将軍だった。神様はその将軍を癒される、というとんでもなく仰天計画を実行されたのでした。このアラムに勝利する、そのためなんと、北イスラエルの目に見えない中、背後で神様は敵国アラムにまでその御手を伸ばされ、働かれていた。

 

アラムの将軍ナアマンは思い皮膚病、ツァラアト(ひどいと皮膚が雪のようになるという)というものにかかっていました。多分感染症の問題等からも神様はこのツァラアトにかかったものは隔離するように、と決められ、まあ神様を信じていない人たち、国民も、英雄であるけど、と奇異な目で彼を見ていた可能性があります。そのことに彼は苦しんでいた。

 

しかし、かつてイスラエルとの戦いで捕虜としてとらえ、自分の家に仕えさせチエル一人の女性がナアマンの奥さんにイスラエルに癒すことができる人(エリシャ)がいる、彼なら癒せます、と。ナアマンにしてもプライドがあるでしょう。なぜ敵国に頼らなければいけないんだ?と。しかし、彼は藁をもすがる思いでイスラエルに王の許可を取り向かうのでした。

 

一方、北イスラエルからしたら、王の父、アハブの仇のアラムがなんと助けを求めて手紙を出し、癒してくれ、と来たもんだ。なんの嫌がらせ?と思ったでしょう。でも、彼が「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う」といみじくも言っているように、これはまさに神様しかできない。神様こそ、私たちを殺すも生かすもできる。でも神様は一人でも多くの人が生きてほしい、それこそが願いなのです。

 

まさに、北イスラエルにも、アラム側にも神様の目に見えない御手が動いていた。アラムは結局この先の戦いでイスラエルに敗北するのですが、今ナアマンが癒され、神様と出会い、帰国して、その彼を見て彼らが悔い改めれば神様のいのちがアラムにも表される。まさに神様のその「生きてほしい」という願いは北イスラエルに、またアラムにも表されていた。

 

ナアマンは、エリシャが、せっかくここまで将軍・英雄たる私が出てきてやったのに出迎えもしない、と腹を立て、あまつさえ汚いヨルダン川で7度体を浸し洗え?何を言っているんだ?と怒って帰っていきます。

 

私たちも似たことはないだろうか?私はこれだけ祈ったんだ、これだけのことをしたのにどうして神よ、あなたは目に見えて現れて答えない?私の望むようにしてくれない?と。しかし、北イスラエルに、アラムに、目に見えない背後にあっても働かれていたように、神様は今目に見えて結果を、自分が満足する形で出さなければ何もしていないのだろうか?

 

しかし、ここに招いたのは神様だ、ということを忘れてはいけない。神様が今あなたを生かされていることを。ナアマンを、イスラエルの敵国であるアラムの英雄であるにもかかわらず癒そうと招かれたんです、神様が。

 

この方が癒す、と言ったら癒すんです。方法は信じられなくても。でも、私たちは仮にナアマンの様に、ヨルダン川に身を浸す、というそんなことをして何になる?ということであろうとも、信じ委ねる、これこそが大事。ヨルダン川だから癒されるんじゃない、神様のお働きに、ゆだねること、ただそれだけなんです。私たちの不安、思い煩い、痛み、また罪、そうしたもの一切をもう神様の前に差し出す、その時神様はこれを洗い清め、神様の信じられない御業を成し遂げてくださる。

 

神様は今日、御子イエス様の十字架というヨルダン川にあなたを招かれている。あなたを救うため、あなたの思い煩い、不安、何より罪により神様のいのちを失ってしまっている、隔離されなければいけない、そのまま滅びゆくはずの私たちをご自身のもとに招くため、私たちの罪の代価・死をイエス様に背負わせ、十字架に架け、身代わりに罰せられ、死なせた。私たちが沈み死ぬ代わりにイエス様が身代わりに死なれたのです。

 

しかし3日目によみがえられたことによって、7度目に癒されたナアマンのごとく、イエス様の前に悔い改めるすべての人の罪を癒される。この神様との和解の関係において、あなたの体は新しくされる。神様の子とされる。この関係において、仮に目に見えなくとも、あなたを今日も保証し、癒され、その御心で覆い、また導かれる、神様の栄光を現されるのです。

 

あなたに必要なことは難しいことではない。ただこのイエス様のいのちを受け入れる事。ただこの1つの事によってあなたと神様は和解され、復活のイエス様があなたの内に住まいながらあなたを新しく日々造り替えてくださる。あなたの周りも、あなたを通して神様の御国が広がりかえられていく。あなたにとって不可能と思うことさえ。イエス様が一緒に戦われる。イエス様がこの後のナアマンのように一緒に進んでくださる。だから今日、私たちはこのイエス様のいのちに浸り、この命の内を歩もう。