―人を生かし癒す、いのちのパン― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前にすわっていたので、彼は若い者に命じた。『大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。』彼らのひとりが食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生のうりを前掛けにいっぱい取って、帰って来た。そして、彼は煮物のかまの中にそれを切り込んだ。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。彼らはみなに食べさせようとして、これをよそった。みながその煮物を口にするや、叫んで言った。『神の人よ。かまの中に毒が入っています。』彼らは食べることができなかった。エリシャは言った。『では、麦粉を持って来なさい。』彼はそれをかまに投げ入れて言った。『これをよそって、この人たちに食べさせなさい。』その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、『この人たちに与えて食べさせなさい』と命じた。彼の召使いは、『これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう』と言った。しかし、エリシャは言った。『この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。【彼らは食べて残すだろう。】』そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。」

Ⅱ列王記4章38-44節

 

私たちの世の中には、様々な情報が飛び交っている。最近だったらデマ情報か。そしてこれに振り回される。それが正しいか正しくないのかわからず食べてしまい、混乱も起こる。でも私たちは本当に正しい情報・福音、神様の御ことばを食べ、生きよう。神様の御ことばが生きて働かれるとき、それは良い意味でその命が溢れ広がるから。

 

さて、↑は紀元前北イスラエル王国での出来事。時は最悪の王アハブの後。アハズヤかヨラムか、アハブの子供が国を治めていたころの話。アハブの悪政によって国はかなりダメージを受けていた。豊穣と称して淫行の強要や子供を火にくべる、王が気に入ったものは国民から搾取、逆らえば殺され、その恐怖から委縮していた。さらには、周辺の列強国アラムや、モアブにまで脅威にさらされている。アハブの傷跡と、まだ残っているその奥さんのイゼベルの院政によってその傷は深く残っていた。

 

そんな中、神様はエリシャという預言者を遣わした。預言者というのは神様のメッセージを届ける人、語る人、それすなわち、神様のご意思をそこにあらわすため、その愛がそこに向けられている証拠なのです。↑はその中で起こった2つの奇跡なのですが、ただ奇跡、すごいね、でとどまらないのです。彼らに神様は見せて終わり、奇跡が起こった瞬間だけで終わるのではなく、ここから神様の大いなる御業が奇跡を飛び出し広がっていくのです。

 

ということで、↑に話は進めて。エリシャがギルガルというところに帰ってきたとき、その地は大変な飢饉に襲われていました。これだけで震えますね。偶然ですか?エリシャにとってアンラッキー?せっかく落ち着こうと帰ってきたら飢饉って。いえ、神さまがちょうど良いタイミングでエリシャを遣わした。神様はその飢饉のとき、とんでもないタイミングにあってもその御力を、愛を現そうと遣わされる。

 

あなたにも、今のこの暗闇の、悲しみの時代にあっても同じです。神様は私たちの状況をご存知、その中に神様はその御業を現そうとされている、感謝じゃないですか。昨日の夜の投稿にも書きましたが(この3つ↓の投稿)神様の救いの準備は万端。でも、それを私たちが受け取るかどうか、これが大事なのです。

 

そんな中、エリシャはこの苦境を見て、預言者のともがら(仲間)に食料を用意しよう、と若者に言います。食料も何もない。どうしたものか。若い人は近くの野の草を集め、鍋に入れます。はい、野の草は注意ですよ?何が食べられるのか、わかりませんからね?彼らも知識がなかった。良かれと思って、ああこれは食べられるかな?と思って入れたら、食べられない、毒性の物が混じっていたのでした。

 

そこで若者はエリシャに助けを求めると、エリシャは麦粉を持ってこさせ、それを鍋に入れると、その鍋は食べられるものになり、エリシャの預言者仲間たちはこれを食べ、この飢饉を乗り切った。

 

なんということだろう。飢饉で何にもない中、せめて野草でもと思って集めたものでダメだったのに、たかが麦粉、なんになる?と普通なら考える。でもこのたった1握りの麦子が毒を癒し、彼らの必要を、腹を、魂を満たしたのだから。私たちは様々な情報、声があり、心の内の悲しみや辛い思いもあって情報が錯綜する。自分はどうしたらいいのか、どうしたら生きたものとなりえるのか?でも、ほんの一握り、周りはそんなものは役に立たない、と思う福音、神様のことば、神様の御力にこそ癒しがある。私たちを元気づける。魂を健やかにする。

 

多くの情報、思い煩いが錯綜する中にあって、神様の御ことばに命を見出そう。あなたはこれをすでに握っているはず。私たちが知らないだけで、神様はあなたのその飢饉のような状況の中にもその命を湧き出でさせる力がある。そこから癒しが起こる。

 

でも、これはここに留まらない。1つ目は預言者のともがらだけだった。仲間だけだった。でも、この神様の愛が溢れるところに来るところに、この奇跡は奇跡を飛び出し、大いなる御力が広がっていく。一部、目に見えるだけではなく、あなたの周りにまで広がっていくのです。

 

2つ目で、ある人がエリシャに初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持ってきたので、これをさらに周りの人たち100人そこにいたようで、彼らにも分かち合うことにしました。この飢饉の中にあって自分たちの内にとどめるだけではなく。ただ、召使いが言うには、どうもとても100人を満腹にさせられるほどの分量ではなかったようです。それではどうにもならない、というと、エリシャはそれでも分け与えるように言います。それでも余るはずだ、と。実際なんと余った。このエリシャを通して、まさかと思うもので満腹にした、しかも残らなかったのではなく余ったのでした。

 

「神様が」エリシャを通して、「分け与えた」。一部の人だけじゃない、神様に仕えているから預言者たちだけは与えよう、じゃなくて神様は願わくばすべての人にその命を、神様の養いを注ぎたい、とその命のパンを用意されているのです。あなたにはあなたへの必要分を。あなたが来るのを待っているのです。あなたがこれをエリシャの様にさらに受け取り、これを他の人に分け与える時、そこに神様のいのちが広がりを見せる。神様を信じて何になる?とあなたの持っているものをとどめて、知っているだけで終わらせずに、その愛を分かち合う、御ことばに従うとき、行動に出る時、そこにあなたが想像しえない何かが起こる、神様が変えられるのです。

 

イエス様も人となって生まれられた時、3万人近くの人を5つの大麦パンと2匹の魚だけで満腹にさせられましたが、それ以上にイエス様についてくる人たちには、イエス様を救い主として受け入れる人、十字架の前に進み雪悔い改めた人には、その十字架上で死なれ、分けられたイエス様の体、その血潮によって私たちは神様の子とされ、神様のいのちを、御心を、御力を注がれ、この神様の1つ1つの下さる麦粉、御心によって生かされる。復活のイエス様が住まわれ、こんなもの何になる?と周りに言われようと、そのイエス様の御力があなたを覆い、導かれる。

 

この1握りの麦粉、イエス様の愛をもって分かち合い生きる中に神様の御国が広がっていくのです。奇跡は物語ではなく神様の愛、事実です。本に留まりません。今日、このイエス様のいのちというあり得ない大いなる奇跡に生かされ、歩もうではありませんか。偽りの情報・もといサタン、世の思い煩いによって死にゆくのではなく、イエス様のいのち・御心に今日、生きよう。