―開かれた扉、あふれる油― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。『あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。』エリシャは彼女に言った。『何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。』彼女は答えた。『はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。』すると、彼は言った。『外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。』そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。『もっと器を持って来なさい。』子どもが彼女に、『もう器はありません』と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』」

Ⅱ列王記4章1-7節

 

水を飲めばコップの中身が減る、マスクを使えばマスクは減る。でも神様の恵みはあなたの魂を潤すために注がれるけど、それは尽きることはない。でも私たちは自分にこれはいらない、と取捨選択して、神様の恵みを棄ててはいけない。神様の注がれる愛、恵み、御心にだめなものはない。すべてはあなたの魂を潤し生かすものだから。この恵みの内に生きよう。

 

さて、↑はここ1か月くらいずっと、紀元前北イスラエルのアハブの治世から続く歴史を、いやそのうちに働かれる神様の愛を見ていますが、その中にあって遣わされたエリシャを通して神様がなされたその御業。

 

今、歴史、と書きましたが、歴史=History、これはHis Story、神様の歴史、と書きます。私たちの生きる人生、歴史の一つ一つには、大きく歴史、と言わなくてもあなたの一日一日には、神様の愛が注がれる、神様によって築き上げられる一日一日なのです。これはとても大きい。どんなに辛い時代にあっても、神様は何もできないわけではなく、神様の恵みは、愛は、その御思いは注がれているのです。

 

話は戻して、ある日、預言者仲間の一人が亡くなり、奥さんと子供が残されたのですが、どうも借金のようなものが残っていたようで、今子供2人が奴隷として売られようとしていたのでした。この国では問題があって、子供を豊穣のために火にくべるなんてことも平気で行うような国、子供が奴隷として取られてまともに扱われるはずがない。その偽神への宗教行為にとらわれる可能性だってあった。

 

もう絶望そのもの。家の中にはもう何も残っていない。彼女の家の器は空っぽだった。もしかしたらすでに自分の家の持ち物を全部出しつくし、売りつくした後だったのかもしれない。ただ残っているのは油のツボだけだった。そんなものだけあっても何にもならない。

 

しかしエリシャは神様に祈ったのだろう、そしてこう彼女に言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい」と。聖書にあまりなじみのない方は、は?そんなものを用意してどうするの?と思った人もいるかもしれない。私も思う。移し替えるだけじゃないの?って。

 

しかし、彼女はすぐに実行して後ろの扉を閉め、器を借りれる限り借りてきて、躊躇することなく油をその器に注いでいった。すると、器が尽きるまで、油の中身はなくなることはなかった。ありえない。でも、その量は、最後の手段と思われていた子供たちを奴隷として売る、それだけの負債を支払ってもなお、余りあるほどの量だった。

 

もし、彼女がそんなことはあり得ない、と疑って器を用意しなかったらどうだっただろうか?普通に考えたらあり得ない話です。でも、神様はエリシャを彼女のもとに遣わした、つまり神様は彼女の必要を十分に知っており、その彼女一家の必要を十分に満たしても余りあるほどに、養い続けるほどにその愛を注がれる、その準備は整っていた。でも、彼女自身という器に穴が開いていては、注がれても垂れ流されるだけで、彼女たちは決してうるおされることはない。

 

私たちは自分の疑いが混じることがないよう、私たち側の蛇口、疑いの心、神様は答えてくれない、注がれても足りないだろうから、私がなんとかしないと、と器を満たそうとする、その油を止めなければいけない。私たちは神様に信頼います、という信頼の器を用意する必要はありますが、神様のこの御心では解決しないかもしれない、と考えて自分のお心を追加する必要はない。疑いの蛇口は閉めなければいけない、神様は何もしない、と疑って他のものを用意しに行く不信仰の扉は閉めなければいけない。神様は十分用意してくださっている。

 

神様のあなたへの愛が足りない?あなたの今日のために用意されている油はどうして足りない、ということがあるだろうか。神様の御心と、あなたの信仰・決断が織り交ざるときに、あふれんばかりの神様の御心があなたを潤す、でも、神様の御心と、私たちの疑いの心によって別なものを混ぜようとすれば、神様のその御心、完全なる愛を濁らせてしまうじゃないか。

 

こんな暗くなってしまった時代に神様は何もしてくれない?そんなことはない。神様は今日、あなたの内に何かを成そうとされている。でも、私たちがその油が、御心が注がれても、エリシャの立場から見たら、こんな時代に一人のやもめを助けたって何にもならない、と考えずに飛び込んでいったように、疑わずに神様の御心を祈るなら、その光をもって世に出ていくなら、そのあなたを通して神様の油はこの地に満ち溢れる。

 

コロナの問題だけじゃない、職場や家族、あなたの置かれている場所でどんな困難があっても、それでも神様の御心を祈り願うなら、その神様の促しにあなたが応答して、愛をもって仕えるなら、そのあなたを通して注がれる神様の御心をもってそこは神様の油、御心、ご支配、御力で変えられていくのです。彼らは北イスラエルの絶望の思い、サタンを締め出すため、扉を閉める必要があった。

 

私たちも様々な不安や恐れ、疑いがある。でも、あなたの内に満ち溢れるべきはそのようなものではない。神様の油がここに満ち溢れる時、あなたは変えられていく、あなたの周りは変えられていく、神様によって。だからこそ、私たちは神様なんか信じてもダメかも、と別な扉、蛇口を用意するのではなく、疑うことなく神様の御心を祈り求めよう。あなたはあなたの内に何が溢れることを願っていますか?

 

御子イエス様はあなたの内が枯れていくことを、世の思い煩いであふれかえっていることを良しとはしなかった。あなたの内側を洗い清め、癒し、新しい神様のいのち、御心、愛という油で満たすため、御子イエス様がその天の窓を開き人となって生まれてこられた。そして多くの愛を注がれていった。でも、私たちが神様を神様とせず、別な扉を開けてしまっているため、その愛は流れ落ちてしまい、死にゆくものとなってしまった。しかしイエス様はそんなあなたをなお見捨てられず、十字架で身代わりに罰せられ、死なれたのです。私たちの罪を背負って。その御子イエス様のいのちをもってあなたの空いてしまったその穴はふさがれた。復活のイエス様のいのちにあってあなたはうるおされる、満たされていくのです。あなたの内側に満たそうとされた神さまの愛は、この命懸けの愛、その愛ゆえの御心です。

 

今日、この命の油を受け取ろう。そしてこれを私たちの疑いで取捨選択するのではなく、ただただ神様の御心がなるように祈りの扉を閉めることなく、歩もうではありませんか。