―あきらめず、祈るのをやめない― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

Ⅰテモテへの手紙2章1-6節

 

私たちは祈りを軽視しがち。その前に状況の前にひざを折ってしまう。でもどうせひざを折るなら、神様の御前にひざを折り、祈りをささげよう。祈りを赦されている神様が、今日あなたを心配し、また祈りを聞かれるから。何より御子イエス様のいのちをかけてまで和解された関係ならなおさら。

 

さて、↑は紀元1世紀、パウロという伝道者が教会の若者のリーダーであるテモテへあてた手紙の一部です。パウロはもともとは、イエスキリストを神の御子救い主として認めず、むしろ神を陥れる者だ、と迫害するものでした。彼に与するものを、ある時は若い中心人物を迫害・殺害に加担するものだった。

 

しかし、ある日そんな彼に復活のイエス様が訪れた。裁くため?違った。パウロも救い主を待ち望んでいたがイエス様の恵みを知らなかった。何より復活?神を呪うものが神の御子であるはずがない(イエス様はそんなことは一度もしていませんが)、と思っていた。でも確かに御子イエス様は十字架で死なれ、預言の通りよみがえられた。パウロは恐れおののいた、私こそ神様の反対者だったのだから。しかしイエス様は彼を処刑するどころか、悔い改めに導かれ、罪赦され、神様の子として迎え入れてくれた。

 

そんなパウロ。今度は裏切り者、と元同じ宗教家たちからも迫害を受け、命を付け狙われ、妬まれ、捕えられ、何度も殺されそうになった。また、ローマ帝国の支配によって苦しんでいた。そんな中で↑のように訴えるのです。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」。

 

ぶっちゃけた話、これほど困難な話はない。私も苦手な上司たちのために、または政治家たちの腐敗を見るとなんでこんな人たちのために祈らなければいけないんだ?と感じてた。でもパウロやテモテはもっと上のレベル、ひどさで体験していた。でも、パウロは↑に立つ者のために祈るように勧めるのです。

 

ただね、これは、自分の上に立つものに屈っして従う、間違っていることでも従え、ということではないんですよ?パウロがいうのは「祈りなさい」ということなのです。これは間違ってはいけない。

 

↑の個所をどうして今日分かち合おうと思ったか、ブログの方では夕方に少し分かち合っていましたが、北海道で今週末も外出制限がかかる。ただそれをサポートする体制ができていないし、マスクを一部の自治体に配るといったって、他にも必要なところがあるし行くべきところに行かなくなる。知事は若いし、とこう批判したくなる状態に今あるわけですが、その前に私たちはすべきこと上がる、ということを↑の御ことばで思い出したのです。彼のためにまず祈るべきだ、と。彼が足りないなら、彼に知恵が、必要な助け手が与えられるように。

 

神様が何もしてくれない、と私たちは考えたくなる。でも、私たちこそ神様に期待し祈ることをしていないことがある。神様は何もしないのだろうか?大きな国の話だけじゃなくてあなたの職場や人間関係でもいい、果たして神様は何もしない?いえ、私たちこそ神様に期待していない。祈っても無駄、と考え祈ることを軽視してしまう。でも、パウロはあなたが神様の御心がなるように祈ることを、こんなとんでもない迫害化、牢にとらわれ今いよいよ死のうとしている中でも手紙に↑の様にしたためるのです。人間身動き取れなく牢の中にいようが、心がとらわれようが、神様の愛は、御業はとどめることなどできないのです。

 

↑でイエス様は仲介者、神様と人の仲介者となられた、と書きましたが、人と神様を結んでくださる。本来私たちだって神様に捨てられてもおかしくない存在なのです。人の批判の前に私たち自身神様を批判し、神様から離れ好き勝手に生きてきた。神様の前にどうして自分が正しいといえるだろう?でも神様はそれでもパウロを棄てなかったように私たちを棄てず、あなたが滅びゆくことよりも生きることを願い、私たちの罪の身代わり、その裁き・死を御子イエス様に背負わせた、何の罪もないイエス様に。身代わりに罰し死なせた。

 

でもそこで終われば神様との和解はないけどこのイエス様の身代わりの十字架をよしとされた神様は私たちの罪も、このイエス様の十字架にあって、悔い改めるなら、私たちの罪も許され神様と和解させてくださる、3日目にイエス様がよみがえられ死より引き上げられたように、私たちもこの裁きの座から神様の子へと引き上げられる。神様と和解させていただいたのです。

 

このイエス様にあって私たちは神様と結ばれている。いのちがけの愛、イエス様のいのちにあって。ならばどうしてこの神様の下さった新しいいのちに期待できないでいられるだろう?どうしてむしろ、もっともっと神様の御心を現してください、と祈らずにいられるでしょう。

 

パウロは「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです」と書いていますが、それを成し遂げるのはあなたの上司や何やらではない、神様です。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えた神様です。神様の御心がここにあらわされるとき、私たちは経験に、また威厳をもって、平安で静かに過ごせるのです。神様の喜びがあなたの内に、あなたの周りに満ち溢れていくのです。その愛は今日も変わらない。コロナのことも、あきらめちゃいけない。祈ろう。

 

私たちは今日、もう一度神様との関係を思い返し、神様がどれだけ愛してくださっているのかを思い、神様に立ち返り生きよう。神様の御心が、愛が、喜びが、いつもあなたを、あなたの周りを、多い、あふれ、神様の栄光、救いが来ますように、と。もう一度言いますがそれを成し遂げてくださる方は、上司でもあなたでもなく、神様。この神様に期待しよう。