―まとうべき衣― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こうして、イスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。『私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。』こうして、イスラエルの王は変装して戦いに行った。アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に命じて言った。『兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。』戦車隊長たちはヨシャパテを見つけたとき、『確かにあれはイスラエルの王に違いない』と思ったので、彼のほうに向かって行って戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。それで、戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は自分の戦車の御者に言った。『手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。』その日、戦いはますます激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中に立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血は戦車のくぼみに流れた。日没のころ、陣営の中に、『めいめい自分の町、自分の国へ帰れ』という叫び声が伝わった。王は死んでからサマリヤに着いた。人々はサマリヤで王を葬った。それから、戦車をサマリヤの池で洗った。すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。アハブのその他の業績、彼の行なったすべての事、彼が建てた象牙の家、彼が建てたすべての町々、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。アハブは彼の先祖たちとともに眠り、その子アハズヤが代わって王となった。」

Ⅰ列王記 22:29-40節

 

今、新型コロナウィルスの流行で感染からいかに守るか、対策が取られてきている。ある意味で「危機感を」もう少し早くとってれば、と思うところですが。私たちの歩みにおいても、様々な問題がある。しかし私たちはしっかりとこの戦いに備え、キリストの衣をまとう、命の衣を、御言葉をしっかり握って歩みたい。いつ不意打ちを食らおうとも、このイエス様の衣を突き破れるものはない。

 

さて、↑は古代北イスラエル王国のアハブ王朝の終焉、最後の戦いです。彼はイゼベルの持ってきたバアル教に、いやイゼベルに心を奪われ、国を乱した。国民のものが気に入れば、その国民の命を奪って奪い取ったり、豊穣を願って淫行を強要、子供を火にくべ、この宗教を信じないものは容赦なく命を付け狙う…

 

しかし、彼の最後の時が来た。神様の裁き。神様は北イスラエルの国民を、神様から離れていてもそれでも見捨てなかった。またアハブにも悔い改めの機会を何度も送られながらも帰らず、彼をそそのかし縛っていた最悪のイゼベルから離れる機会を神様は幾度となく示されていたのに。

 

そんな中、アハブはこれまで盟約を結んでいたアラムに裏切られ、反旗を翻され、今攻撃を受けていた。南ユダのヨシャパテ王と共に今戦いに出ていきます。王は自分の命を守るため、自分が王とはわからないよう変装し、共に戦う南ユダの王ヨシャパテには往復を着て戦いに出るよう決めて戦いに出ます。

 

しかし、敵のアラムは賢かったのか、兵ではなく頭・王を撃てば勝利だ、と確信し、王を狙い、往復を着ているヨシャパテに狙いを定めました。しかし、ヨシャパテは守られた。敵の矢によるのではなく直接来たことによって守られた。一方、敵の何気なく放った矢がアハブの鎧の隙間から彼に刺さり、彼はついに絶命するのでした。

 

これは偶然なのだろうか?いや違う。神様に最後までより頼むヨシャパテは、神様によって守られた。神様の鎧・衣が彼を覆っていた。神様ご自身が彼の盾となっていた。しかし、最後まで神様を拒否していたアハブの肉の鎧は不意打ち、敵の矢には対処しきれなかったのです。彼がどんなに王服を隠しても、自分が王である、という、神様を神様とせずに歩んできたその肉の王服は隠すことはできなかった。いや、その王服はどんなに権威を振りかざして好きなものを得てきても、他から奪っても、結局何も得られず、最後は惨めな最期を迎える。

 

私たちはこの神様の御心の中、生かされるのです。昨日の夜の投稿「天上の会議」のところを思い出してほしいのですが、様は私たちのことを心配され、今どうにか救い出せないか、必死にその御手を伸ばされているのです。天上の会議でアハブの裁きが決まりましたが、イスラエルの民からしたら救いの時、またアハブにだってそれまでも何度も立ち返りいのちを得るチャンスがあった。自分が王であるとプライドの王服を脱いで神様の御心の衣、命の衣を着せていただけるチャンスはいくらでも天上で話し合われていただろう。でも彼は拒否し続けた。

 

この世の中には罪もある、サタンも手負いながらもはびこっている。吠え猛る獅子のように。それに罪の呪いゆえに、さまざまな突然のアクシデントだってあって、いつ私たちの魂を貫かれるような出来事があるかなんかわからない。いつ最後の終わりの時が来るかなんてわからない。私たちはそんな時の備えができているだろうか。

 

しかし、神様のいのちが、神様の愛が、神様ご自身があなたを覆うなら、あなたの魂を何物も刺し貫けない。火の矢も、あなたを討つことなどできないのです。主ご自身があなたの盾となり、守ってくださる。戦いはそれはあるでしょう。でも、その戦いの中にあっても、ヨシャパテを思わない形で守られたように神様ご自身がその戦いの中にあってもあなたを導き出し、神様の御心へ、勝利へと導かれる。

 

私たちが着るべきは、自分のプライド、自らを王とする王服じゃない、神様ご自身です。その時得るものは、この世の書物に残るようなレベルではない、神様の栄光の富があなたを覆う。王ではなく、神様の子としていただける。この世の書物には書ききれないほどに。最後は死して後には、安らかに眠り、天の父なる神様のみむねに抱かれ生きるのです。

 

神様は、あなたのために御子イエス様をアハブに下されるはずだった、私たちに下されるはずだった罪への刑罰を負わせた。死を。あなたが来ている罪の衣、この世の思い煩い、罪の呪い、そうした一切の衣を脱がせ、身代わりに来てくださり十字架にかかられたのです。そして、死と共にその衣を陰府に捨て置かれ、あなたをその罪の奴隷・死から引き上げ、神様の子とされ、その栄光の衣をあなたに着せてくださった。あなたが自分の罪の衣をイエス様の前に脱ぎ捨てるなら、あなたの誇り、プライド、自らを神、王とするその衣を脱ぐとき、イエス様の十字架ゆえに、新しい神様の子としての衣が着せられ、あなたの内に復活のイエス様が住まわれ、イエス様の御心、御力があなたを覆い、導かれる。

 

パウロは言います。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」。

 

今日、私たちはしっかりとイエス様の衣を着させていただき、脱げることがないようその帯を聖霊様によって結ばせていただき歩もう。日々祈りながら。あなたを守られ、戦われるイエス様はいのちをかけてあなたを取り戻された。この命懸けの愛に信頼し、ゆだね、歩もうではありませんか。