「…アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。『さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。彼にこう言え。【主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。】また、彼に言え。【主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。】』アハブがエリヤに、『あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ』と言うと、エリヤは答えた。『あなたが裏切って主の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ。今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについても主はこう仰せられる。【犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。】アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。』アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。『あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。』」
Ⅰ列王記21章14-29節
神様は、私たちのことを存じておられる。だって、私たち一人一人は、あなたは、神様が造られた大切な存在だから。あなたが一人でどうにもならない、という中にあっても神様はその御手を伸ばされている。私たちは神様から譲り受けたこの新しい大切な命の内を歩もう。
さて、↑は昨日の夜に分かち合わせてもらったアハブ王とイゼベル王妃の結末のところです。この国の状況についての詳しくは、これまでの投稿を参考に。わかりやすく言うと、隣国北〇〇に近い状況です。
そんな絶望の中にいた北イスラエル王国に、神様エリヤという預言者を遣わし、民・彼らを神様の御もとに引き寄せていくのでした。神様は、エリヤを通して多くの奇跡を見せながら、神様に立ち返るすべての人に神様は養われ、かくまってくださった。とんでもない現実の中にあっても神様は私たちの隠れ場、盾となり、戦ってくださった。これ、希望ですよね。私たちにどんな絶望的な状況があろうとも、神様がその幕屋を張られ、あなたの内に住まわれ、共に戦い養われ導かれる、勝利の日へ。
一方でおもしろいことに、アハブ王にも驚くべきことに恵みを示し、散々な悪を働いた彼にも、戦いの中にあって神様は助け、神様の素晴らしさを示された。しかし、これまで見てきた何度となく示された神様の憐み、救いをないがしろに彼はした。神様を信じていて一体何の保証があるんだ?何時も助けてくれるとは限らないじゃないか、と神様自身の下さるものを拒否し続けるのでした。
神様はこれだけ憐れみを示している、彼自身を神様ご自身のいのちの内に招きたい、ご自身の恵みをすべてを、譲り養い導きたい、と招いているにもかかわらず彼は徹底的に拒否した。だから、ナボテの畑を見てそれがほしい、とナボテに銀をもって買取ことを提案するも、拒否され、殺し、奪う。隣の芝は青く見える、じゃないけど、神様は自分には何も良いものを与えない、あいつの家の畑は素晴らしい実を実らせてるじゃないか、と嫉妬し、奪い取った。
ナボテからしたら理不尽この上ない話です。でも、果たして神様は彼に良いものを与えていなかったのだろうか?与えていた。裁きの時にも彼に憐れみの雨を降らせ、自業自得で敵に囲まれ死に瀕しているときにも共に戦い守って勝利させてくださった。神様は彼の内にその実を結ばせたい、と彼の帰りをずっと待っていた。にもかかわらず彼はそんなものは私の望むものではない、と拒否し続けたのです。神様が実らせたその実を彼は見ていないのです。それがどれだけ素晴らしいか。いや、これから実らせていく、それを待つことができずに、なんだか実は今は何もしないのか?とすぐに離れていった。
そんなアハブの内に神様はもう一度エリヤを遣わされた。彼の最後、彼の妻イゼベルの最後です。その死体の血が犬に舐められる(イゼベルは犬に死体を食われる)。その子孫も断ち切られていく、と。もう最悪の結末。神様に見捨てられた。そうなってはどうやって私たちは生きられるだろう?私たちは神様のいのちにあって、譲られる一つ一つの恵みにあって生かされるのに。最後は神様からさえ断ち切られる。
私は、なぜ神様はわざわざエリヤを遣わされたんだろう?と思った。エリヤのいのちをアハブは狙っているのに、なぜわざわざ。こんな悪どい最悪の王ですよ?さっさと裁きを降しておわりにすればいいじゃないですか。ただ、それでも愛するエリヤのいのちの危険をさらしてでも、彼に命を得てほしい、最後の最後まで彼が悔い改め立ち返ることを願っていたのではないか、と私は思う。
私たちは、アハブに告げられたように、神様から離れていては生きることはできません。木の実は、その枝につながり、その枝が幹につながっていなければ実を結ぶことはできませんし、栄養が行かずに地に落ちて死ぬだけです。そんなことを神様は望まない。私たちが霊的なイゼベル、この世の悪、罪、またはもっと身近な思い煩いなどにつながっているうちは、そこからしか実を結べない。しかし、私たちが神様につながっているから、その命が溢れ流れる、あなたに神様の大いなる恵み、実、御心、を神様が実らせてくださるのです。
驚くべきことに、アハブは最後の最後でここで悔い改め、裁きは引き延ばされた。神様はこの機会をまさにアハブに示された、エリヤの命を懸けて。私はそう思う。神様の愛は信じられないほど大きい。神様は私たちにそんな驚くべき結末を迎えさせたいのです。
いや、一日でも早く神様にあなたが立ち返って命を得てほしい、とその御手を伸ばされ続けている。とんでもない絶望かにあろうと、神様から離れていようと、あなたが悔い改めいのちを得るためなら、と、エリヤどころか御子イエス様を遣わし、命懸けどころか、実際に命を懸け、私たちがアハブに下されたように死の宣告を受けている、その宣告を身代りに引き受けられ、十字架に架けられ身代わりに罰せられ、死なれたのです。
そして3日目によみがえられたことによって、私たちへの裁きの宣告は取り消される。もちろん、私たちが、あなたがイエス様の前に悔い改めるなら、ですが。アハブのような不完全なものではなく、完全な和解がそこになされ、あなたは神様の子とされるのです。神様から絶ち切られるのではなく、神様の子とされるのです。このイエス様のいのちにあって私たちは神様から素晴らしい譲りの地、新しい命を、いただく。あなたの内に復活のイエス様が住まわれ、あなたのうちに神様の愛、御心の花を、実を結ばせてくださる。
あなたの実を奪い去ろうとするイゼベル、罪、サタンは、この世の思い煩いはこのイエス様の前に何もできません。いや、彼らにあなたの実を奪わすことがないよう、私たちはしっかりこのイエス様につながり歩み続けよう。そして、やがて来る勝利の日、栄光の日を待ち望もうではありませんか。最後に愛・神様が勝利される!