「主は彼に仰せられた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。』エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。『私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。』エリヤは彼に言った。『行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。』エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。」
Ⅰ列王記19章15-21節
出会いというのは本当に大きい(誤解のないように言っておきますが、出会い系の話ではありません)。神様は、人は一人でいるのは良くない、とおっしゃられている。それは夫婦にかかわらず、神様はいつも誰かと出会わせてくださる、そう思う。いや神様自身が私たちと出会ってくださる。私たちは神様が与える出会い1つ1つを大事にしたいものです。そこに神様が花を咲かせ、実を結ばせていくから。
ということで、アハブとエリヤの話の続き。ついに神様の御心があらわされ、紀元前・北イスラエルを支配していたバアル教(豊穣のために淫行を強要したり、子供を火にくべるなどとんでもない邪教)を打ち破り、民も、神様にある希望をつかんだのでした(詳しいこの国の状況は最近の夜の投稿を参照に。隣国北〇〇にかなり近い)。
しかし、この北イスラエルにおいてバアルを持ちこんでいたアハブ・イゼベルの王、王妃コンビは、神様がせっかく彼らにも悔い改めの機会を与え、真の神様に出会うという機会、命を取り戻す機会が与えられたにもかかわらず、自分たちの権威を打ち崩そうとする神様を認めず、その神様の遣わしたエリヤを打ち砕く、殺そうと、追っ手を向けるのでした。彼らは神様が出会ってくださり、バアルという偽の希望に踊らされ、むなしい人生を歩んでいるのを神様が「善きもの」に造り替えようとその御手を伸ばされていたのにもかかわらず、それを拒否した。
神様は、別に宗教をしたいわけではない。命の関係を、我が子である私たちと結びたいのです。神様は私たちの首根っこを無理やりひっ捕まえて、召使いのように「無理やり従わせる」ような死んだ関係を持ちたいわけではない。それを宗教というんです。神様は、いつでも恵みを備えて下さっている。しかし、それを最後受け取る、選ぶかどうかは私たちの決断。しかしその決断の中に神様はご自身の最高の御心を現されるのです。
聖書にこんな言葉があります。「あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く」。まさにあなたが真心から「神様の」御心の前に応答するなら、その上に神様の御業が光り輝くのです。
↑に登場するエリヤという人は、神様から遣わされ、北イスラエルに神様の御ことばを語り、こんな危険な王たちの前に恐れず立ち、戦った。ところが、今追っ手が迫り、命の危険が迫っていました。もうどうしようもない、私も一人の人間、と死んでもいい、とさえ思った。彼はある牧師が言うにはどうもうつに陥っていたようですが。神様から遣わされて戦ったのに、結局王たちは悔い改めない、彼はこの時は知りませんでしたから、自分の仲間もみな殺され一人だ、なぜ?と。もう充分です、と神様に叫んだ。実際はまだ7000人近く生き残っていたのですが、彼の仲間が。
そんな逃走劇の中、神様ご自身が彼と一緒に同行してくださった。もう一人、と思う中で神様が彼と出会ってくださり、養い、励まし、またその計画を伝えます。今あなたが不安に思っているこの国の行き先、またあなたを付け狙う敵の運命、神様が必ずこれらを打ち砕く、と約束された。さらに、あなたは何もかも失ったように思うけど、死んだと思っていた彼の仲間、預言者仲間が7000人残っている。アハブにも屈しない。さらに、あなたを助けるエリシャをあなたに遣わす、と。神様があなたと一緒。さらにあなたの助けとなる人もいる、さあ行こう、と声をかけるのでした。
私が神学校で学んでいた時に一つの言葉を知りました。「邂逅」。かいこう、と読むんですけど、これは、思いがけない出会い、めぐり逢い、という意味があるそうなのですが、エリヤにとっての彼との出会いはまさにこれといえる。人の手によっては起こりえない。計画的ではない出会い、人の計画には寄らない神様の御手によって出会わせていただける最高の出会い、と言ってもいいでしょう。
もう私一人だ、と思う中で与えられた、神様が出会わせてくださった最高のパートナー。神様は、人が造られたとき、人が一人でいるのはよくない、と最高の助け手を備えられましたが、それは夫婦だけではない、と私は思う。
私の人生を変えた人は何人かいます、邂逅、という意味で。私が自殺をしようとしていた時に、誰も知らないはずの私の状況を、何も知らないで、突然電話をかけて、連れ出し、もう一度神様に出会わせてくださった友。本人はそんな自覚はないそうですが。神様の導きに彼は応答していたようで。またロボットのようになった心を変える誰かと出会わせてください、と祈った翌日、まさにそんな友を与えてくださった。
話は戻して、エリシャにとっても同じような思いだったでしょう。彼も北イスラエルの状況は知っています。しかし、共に働くパートナーがいない。しかし今、エリヤを神様が遣わしてくださった。彼の外套をもらう、まさに神様の恵みが彼の内にも表される、そして彼は家族にも分かち合ったように、この一つの出会いが多くの恵みを広げていくのです。
私たちには多くの取り巻く問題はあっても、神様があなたを一人にはしない。あなたへの最高の助け手を与えてくださる。夫婦だけに限らず、職場でも、誰かしら。神様はあらゆる恵みをもってあなたを覆ってくださるのです。だからこそ私たちはこのイエス様から目を離してはいけない。何より神様はあなたと出会い、あなたの内に御心を現そうと人となって生まれてきてくださったのだから。
さっきの邂逅という言葉の由来には面白いものがあります。「障害が解(と)けて邂(あ)う」。本来罪の壁ゆえに、私たちと神様が出会うことなんてないはずだった。私たちが神様を捨て、好き勝手に生きているんだから。見捨てられても致し方ない、はずだった。しかしその罪という障害、神様と人という壁を打ち壊して、人となって生まれてこられた。さらに、この罪という隔ての壁、これを打ち壊すため、私たちの罪を身代りにイエス様は背負われ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれたのです。そうして、私たちが神様と出会う、和解させていただくため、顔と顔を合わせ、栄光を仰ぎ見るため。
このイエス様との邂逅・和解にあって、私たちは神様の子とされる。あなたがもちろん、エリヤの外套をエリシャが受け取ったように、この救いをあなた自身が受け取るとき。その中で私たちは神様の大いなる恵み・御心・御業と邂逅、出会わせていただける、そのうちに大いなる神様の花・実を収穫するのです。今日、私たちはこのイエス様についていこう。イエス様はあなたと邂逅して終わりではなく、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、世の終わりまであなたを導かれるから。