―病気と死、癒し、全ては神様の御手の中― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。『神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。』彼は彼女に、『あなたの息子を私によこしなさい』と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。彼は主に祈って言った。『私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。』そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。『私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。』主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。『ご覧、あなたの息子は生きている。』その女はエリヤに言った。『今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。』」

Ⅰ列王記17章17-24節

 

神様は、私たちが倒れる時も、疲れた時も、元気な日も、私たちの傍におられ、励まし、力を与える。時に立ち上がれそうにない時にも。元気な時も、力いっぱい神様の栄光を現せるように。あなたの傍には何時もイエス様がおられることを忘れないで。

 

さて、↑は紀元前、古代イスラエル王国が分裂した時代、北イスラエルをアハブ王が治めていた時代の話ですこの時代、北イスラエルは深刻な状況にありました。彼の悪政によって、国は本当に危機的な状況にあった。王妃によって持ち込まれた宗教によって、子供は豊穣のために火にくべられ、欲しいものがあれば持ち主の命を偽の告発によって奪って奪い取ろうとしたり、と、悪そのものに縛り付けられていた。

 

そんな時代にあって、いったいどこに生きがいがあるんだ?もはや死んだも同然な人々の生活の中に、神様は彼らを顧みてくださった。ついに、このアハブ(それに輪をかけて最悪な王妃イゼベルにも)に対して裁きの時が来た。民を苦しめる彼らから解放する、その悔いの御手が伸ばされたのでした。

 

神様はこの北イスラエルに2-3年飢饉の時を降します。雨も一切降らない、どうしようもない状況に。それによってアハブが悔い改め、国も回復していく、それを願った。悪王にさえ。じゃあ苦しめられている民は?神様はエリヤという預言者を遣わされた。その象徴的な話が↑。

 

一昨日の投稿では、彼女の家はやもめで、息子と二人暮らし。もう油もパン粉も尽き、最後に息子と二人で小さなパンを焼いて死ぬのをまとう、そんな状況にあった。しかし、神様のもとに預言者・神様のスポークスマン的な人といえばわかりやすいかと思いますが、そのエリヤを遣わし、彼をとして、神様は彼らの必要を満たし続けた。エリヤを受け入れた彼女の家には、神様の救いを求め招き入れた彼女の家には、パン粉も油も尽きることはなかった。肉的にも、霊においても神様は彼らを養い、励まし続けていたのでした。

 

ところが、その続きが↑になるのですが、ある日、その息子が突然死んでしまうのですなぜ?どうして?なんでこんなつらい目に合わなければいけないの?神様がいるならなんで?これ、だれしも思うことだな、と思います。そんな体験、きっと皆さんでもあるでしょう。

 

私も母が突然事故死。元気だったのに突然転落死。父は牧師になって働きに出る準備をしていた時に脳梗塞でその道を閉ざされ(母が召された半年後くらい)、数年の闘病の果てに天に召されていきました。この時の話を書けばきりがないのでここには書きませんが、本当に突然、信じられない出来事だった。また、昨日も報告で書きましたが、膵臓の病に今おかされている。原因不明。

 

一体神様はなぜ?と思う。↑のやもめもそうじゃなかっただろうか?エリヤ自身も、彼を助けてくれていたやもめの息子の死を、わがことのように悲しみ悼んだ。それはエリヤの「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか」ということばに現れているじゃないですか。神様はね、そのように、いやそれ以上に、私たちのことをわがことのように感じてくださる。

 

イエス様が人となって生まれてこられ歩まれていた時、同じようにイエス様をよく世話し助けてくれていたラザロという人が死んだとき、生き返らせることはできることはわかっていた、でも、彼らの痛みを我が痛みとし、「イエスは涙を流された」。神様は、人の痛みがわからない方ではない、あなたと同じ痛みを担うべく人となって、神であられるのに来られたのです。そして、神様の栄光を現すため、その御心が現れるため。死からいのちに、心も体も移し替えられるため。

 

ある意味でこのためにエリヤが遣わされたのかもしれない。彼女の傍に神様がおられ、その御心を現すために。エリヤは、「あなたの息子を私によこしなさい」と彼女に言いましたが、私たちが自分の思い煩い、病、悲しみ、重荷をその御手にゆだねる時、いやあなた自身を神様に明け「渡す」時、その中に神様の御心があらわされる。私たちは神様のふところに、みむねに抱かれ、安らぎを得るのです。

 

私の母は事故死で召される時、↑のやもめのように生き返ることはなかった。神様、同じように生き返らせてください、と何度も祈った。でもそれはかなわなかった。しかし、母は死で終わらず、死も涙も悲しもない、天の御国で神様の懐で安らかに過ごしている、それが大きな希望だった。またこのことを通して不仲だった兄弟たちが回復した。1人の兄はイエス様を救い主として受け入れた。母の死をもってありえない神様の御業があらわされた。兄は統合失調症ですが、兄弟が和解し、互いに助けるようになって、きがついたら仕事もでき、ある程度自立した生活が送っています。

 

神様は私たちを死んだままにとどめない。具体的な問題においても、生と死という問題においても。イエス様が人となって生まれてこられた時、何時もイエス様は寄り添い、でもただ見ているだけではなく、慰めるだけではなく、その中に神様の御心を現され、神様は確かに生きている、どんなにローマ帝国、サタン(↑でいうならアハブ)が捕えようとも、イエス様の前にそれらは立ちおおせないことを知らせる。

 

でも、それだけではなく、一時的な回復、癒しだけではなく、神様との関係の和解・癒しがなければ、神様ご自身の御心が私たちに注がれなければ何の意味もない、と、私たちの罪を身代りに背負われ十字架にかかられ、身代わりに罰せられ死んでくださった。神様を神様とせず好き勝手に生きていた、霊的なやもめとなった、神様の命を失った私たちを赦し、受け入れるため。でも罰せられて死んで終わりでは和解がない。イエス様のこの贖いをよしとされた神様は3日目にイエス様をよみがえらせ、自分の罪を悔い改めイエス様を救い主として受け入れるすべての人に、同じように神様は受け入れてくださり、和解させてくださる。エリヤが子どもが生きることをとりなし願った以上に、あなたが生きるため、イエス様は命懸けであなたの赦しを懇願した。

 

死は死で終わらず、死んだ関係は命が、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、そのイエス様を通して神様の御心が日々日々あらわされていく。死んだ後も天の御国に受け入れられる。この新しく生まれ変わったいのちは、死んでから始まるのではなく、イエス様を受け入れた、その日から始まるのです。もはや世は、病は、サタンはあなたを縛り付けることはできない。今日、私たちはこのイエス様のいのちにあって与えられた命を喜び歩もう。私たち自身を神様に明け渡して、神様の御心のままに造り替えてください、御心を現してください、と日々日々祈り歩もうではありませんか。