―究極の助産師?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。わが神よ。私を悪者の手から助け出してください。不正をする者や残虐な者の手からも。神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」

詩篇71篇1-9節

 

私たちには帰るべき家がある。仕事が終わって、とか、何か疲れた時には実家でもかえって心休める。なぜ?そこには待っている人が、親が、心配されている方がいるから。神様もまた、私たちの帰る家を用意されている。天に。でもその前にイエス様自身があなたのうちに住まいたいと、あなたの心の扉をノックされている。あなたはこの呼びかけにどう答えるだろう?

 

さて、↑の詩は古代イスラエル王国の2番目の王、ダビデという人が残した詩です。彼の生涯は本当に波乱万丈で、彼は兄弟たちの末っ子に生まれ、兄たちからも、弟はでしゃばるな、大きなことは大きな人に任せればいい、というようにぞんざいに扱われ、ようやく王に認められ王宮に召し抱えられ、活躍し始めるも、今度は王に妬まれ、次の王に決まっているのに、命を付け狙われ、何度も命を付け狙われた。死にそうな目に何度もあった。王になってからはなってからで、息子に謀反・クーデターを起こされ、国を追われ、再び命を狙われ…

 

神様なんて信じてたって何にもならんじゃないか!と私たちは思うときはあるかもしれない。でも、ダビデが本当にそう思うなら、どうしてこんな詩を歌うだろう、どうして残すだろう。こんなの嘘っぱちだ、と破り捨てず、きちんと残した。神様こそ、真の隠れ場、避けどころである、と。

 

↑の詩の中身に行きましょうか。ダビデは神様に信頼している根拠をこのように歌う・告白しています。「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています」と。

 

え?母の胎から取り上げるのは助産師か誰かでしょ?と思うかもしれません。うん。でも、お母さんのおなかの中から神様はずっと、私たちを見、形作られ、命の息吹を吹き込まれた。でも、神様は、生まれ出る時も、生れ出た後も私たちの手を、いや私たち自身を支え、導いてくださるのです。「私は多くの人にとっては奇蹟と思われました」というように、確かに彼は苦労の多い人生でしたが、神様が、周りから奇跡だ!と思わせるような多くの恵みを、御心を働かせていたのです。というよりも、私たちはこの神様の一つ一つの恵みによって生かされている。神様がその命を与えてくださったのだから。

 

この個所を読んでいた時、自分の生まれのことを考えた。私は一応クリスチャンホーム(両親がクリスチャン)の5代目に当たります。本当にこの信仰が継承され続けてきたのは奇跡だな、と思います。イエス様を信じていない親族もいますが、戦争とか様々な苦難がある時代の中にあっても、決してあきらめず神様に従い続けて守られてきた、これは本当に奇跡的だな、と思います。5代目、という話は母が天に召され、葬儀の準備をしているときに、母の葬儀に駆けつけてくださった方から聞かされました。

 

でも、実はもう一つ奇跡的なことを母の母子手帳から知りました。私の姉は生まれて5日で天に召された。その翌年長兄が生まれ、3年後次兄、その3年後に私が生まれたのですが、この間、母は何度も流産を体験しています。子は授かれど、流産の繰り返し。どれだけ母は苦しんだことだろう。姉が5日で召された後、どんな思いだったのだろう?母はそれでも、姉が天に帰っていったことを信じた、神様のもとに帰ったこと。そして、命は神様からの授かりもの、と信じてた。もう神様は子供を与えないんだ、とあきらめず、その信仰の決断で生まれてきたのが私でした。

 

このことを知ったとき、私は神様に生かされていることを改めて確信しました。このいのちを与えてくださったのは間違いなく神様。私は、知る人は知っていると思いますが、左耳があまりよく聞こえません、小さい頃は体も弱かったし、死にたくなるようなこともたくさんあった。20年ほど前は自殺寸前まで行きました(その時は思わぬところから神様が助け手を送り救い出されました。この話はまた各機会があれば)。

 

確かに、私は神様に生かされている。目に見えた奇跡、というのは、人を驚かせるような奇跡は少ないかもしれない、でも私は神様によって今行かされている、この確信にあって今生きている。本当に感謝だな、そのことを↑の詩を読みながら思わされました。

 

今日は私の話も交じってごめんなさい。でも、ダビデもそうですが、私たちは元気な日も、元気がない日も、順境の日も逆境の日も、神様が私たちを支えている。生まれる前から、生れて後、今日にいたるまで、そしてこれからもです。神様が、養ってくださる、これだけでも奇跡的な話ではないですか。ダビデは、「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」と言っていますが、神様の愛は、ある日はあってある日はない、年老いたらない、若い日はない、すごい、そんなことはないんです。神様は24時間365日あなたを心配され、また養われる。

 

そういえば、キリスト教の結婚式ではこんな誓いをするのを知ってますか?「新郎(新婦)となる私は、新婦(新郎)となるあなたを妻(夫)とし、良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓いますか?」。私たちはイエス様を救い主として信じ受け入れるなら、私たちはやがてキリストの花嫁として迎えられます。イエス様は、私たちをまさに今婚約者として、この誓いを果たされる。あなたがよいときも悪いときも、富める時も貧しいときも、病める時も健やかな時も、愛と慈しみをもってあなたを守られるのです。

 

イエス様は、罪人である私たちの罪(罪とは神様を神様とせず、神様から離れ歩んでいることを指すわけで、犯罪的行為「だけ」を指すわけではない)を帳消しにすべく人となって生まれてこられた。そして、私たちが「良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも」イエス様がその愛を現し、時に癒され、時に励まされ、その愛と慈しみを注がれた。そして、最後は私たちが神様と死によって分かたれることがないよう、その十字架で私たちの罪の身代わりに死なれたのです。そして分かたれてしまった関係を、復活によって回復させてくださった。私たちがイエス様を自分の罪のために死なれ、また蘇られた救い主として信じ受け入れる時、私たちはこの十字架によって、神様とつながれ、神様の子とされるのです。この十字架によって私たちは奇跡のようにいかされるのです。

 

神様は、このイエス様にあってダビデの願いを成就させてくださる。「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。年老いた時も、私を見放さ」ず、「私の力の衰え果てたとき、私を見捨て」ず、守られる。今日、わたしたちはイエス様の十字架の前に悔い改め、立ち返ろう。そして、このいのち、イエス様の愛という最高の奇跡に生かされ、今日も歩もう。