「私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。…私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」
哀歌3章19-41節
孤独と言うのはある意味できつい物があります。しかしイエス様があなたと一緒に今日も明日も進まれる事を忘れないで下さい。明けない明日はない。明日は神様が保障され、明日には確かにこの神様がおられる。新年も。
ということで今日は大晦日。今年はみなさんどんな一年だったでしょう?私個人の話をすれば、資格の取得や、新しい職場に移ったこと、子どもも大きく育っています。一方で千葉に住む兄たちが台風の被害にあって家がやられたこと、など思いがけない出来事も起こりました。昨年は北海道のブラックアウトを経験し、そのだいたい1年後だったので、またか、といろいろ考えさせられました。
まあそれにしても、人の思い出って感謝な事よりもつらかったことの記憶の方が多く残るようですね。ただ、去年のブラックアウトの経験の時も、今回の兄たちの千葉の被害を考えても言えるのは、それでも神様が一緒だった、と言う事。
そんな今年一年を振り返っていた時に↑のみことばに出会い、励まされました。↑はイスラエルがバビロン捕囚にあった、その直後に、ずっと神様の事を語り続け、神様に立ち返るように、と訴えていた預言者エレミヤが、崩壊したエルサレムを座して眺め、哀しみうたった詩になります。
↑はだいぶ希望に満ちたことばが語られていますが、ここに至るまでの1-2章はずっと悲しみ嘆きの声が歌われているのですが、ちょうどど真ん中になるこの3章で、絶望の中で一つの希望を見出すのです。神様がいるじゃやないか、と。聖書も正直で、希望のことばだけを書けばいいのに、と思う。
でも、ここでエレミヤ自身も気づかされた。それは、神様は私たちが幸せだ、と言う時だけ一緒にいるのか?違う。神様は、私たちといつでもどこでも一緒なのです。私たちが勝手に離れて行って迷子になって傷つき倒れるだけで、神様はいつでも一緒、捕囚に会う前のイスラエルに向けて多くの預言者を遣わしその愛を語り、また奇跡も多く起こされながら、あなたを囲う敵を恐れてはいけない、としきりに訴え続けるのです。↑でエレミヤも、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」と告白、歌う通りです。
マーガレット・F・パワーズという方はある時、ご主人と娘さんが水難事故に巻き込まれ、自分も腕を折るという試練に会いました。この時、「この詩をお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と看護師さんがご主人に読んでくれたという詩がありました。ところがこれが彼女を驚かせます。なぜならそれは彼女が若い頃に作った「フット・プリント(あしあと)」という詩だったからです。彼女は一度神様が励まされていた、出も試練の中にあってももう一度神様にあって励まされたのでした。不思議な奇跡を通して。その詩は↓。
「―あしあと―
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、ひとつは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
エレミヤは「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」と言いますが、とんでもない、と思う人もいるかもしれない。でもね、くびきと言うのは1人で負うのではなく、力の強い動物(たとえば牛)と弱い動物(同じ動物)がセットになって、くびきを負いあいながら一緒に進む、助け合うのです。若い頃は苦労を負え?そういうことじゃない、まさに私たちは若いころにこそ、この神様と一緒にくびきを負う、というよりも神様ご自身があなたと一緒にそのくびきを背負ってくださるのです。なぜそこまで?あなたを愛しているから。
私たちが孤独だ、1人だ、なぜこんな苦労を?と思う時、イエス様ご自身があなたの重荷を背負い、一緒に進もうとしてくださる、↑でいうなら憐れみ、力強い御力を現される。神様が、明日へ向かって一緒に進ませてくださる。朝を開けさせてくださるのです。試練の中にあっても一緒に進んで、神様の御業を現し助けながら神様の素晴らしさを体験させてくださる。日ごとに新しく。
神様は私たち一人一人に受ける分を与えて下さります。差別する、と言うわけではありませんよ?あなたにはあなたへの計画を用意してくださっているのです。イエス様はあなたとくびきを共にするため、人となって生まれてこられました。赤ちゃんとして。神様としてのありようを捨ててでもあなたと共に生きる事を選ばれた。でもただ背負って同情するだけで終わりではなく、癒され、励まされ、力づけられ、導かれ…ご自身の御心を現されていった。
でもそこで終わらない。神様の恵みは一時のものでは終わらなかった。神様と罪ゆえに、神様から離れてしまって断絶されてしまった、この最大の悲しみを終わらせるため、御子イエス様は私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれたのです。あなたのくびきを、罪の縄目を身代りに背負われた。そしてあなたの身代わりに罰せられ、死なれたのです。本来降って行く必要のない詩にまで従い陰府にまで降られた。どうしてそこまで?神様があなたを愛しているゆえに、あなたが死ぬことを喜ばず、御子イエス様を身代りにすることを決断された。これこそ最大の慈しみなのです。
そしてこのイエス様の身代わりの十字架刑を良しとされた神様は御子イエス様を3日目によみがえらせ、死、罪によって閉ざされた、サタンの手に囚われ苦しむ私たちを解き放ち、新しい朝へと引き上げられた。迎えさせてくださったのです。自分の罪を悔い改めイエス様を救い主として受け入れるなら、その瞬間あなたはもうサタンの手、縄目から解き放たれる。そして復活のイエス様があなたの内に住み、あなたと共に進まれるのです。かの聖書の中で現された一つ一つの恵みがあなたの内に。
「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう」。今年1年色々あったかもしれない。私個人としては、思わぬ病が年末発見された。でも神様がこの間も共におられ、この病を通してでしか経験できない何かをなしてくださると信じます。神様の導かれる道に、イエス様の伸ばされた手を取り共に歩み、体験する者であろう。これまで見ることのできない、最高の神様の御心、ご計画を私たちはこの時見るから。