「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る。わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ。彼らはナイル川のすべての淵をからす。アッシリヤの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れる。彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。―主の御告げ―」
ゼカリヤ書10章1-12節
収穫がないからと、今うまくいっていない時ほど、私たちの心は試されるのかもしれない。雨が降ってから畑の準備をするのか、雨が降る前から収穫を信じて畑の準備をするのか?私たちはどちらだろう?
ということで、バビロン捕囚から解放されイスラエルに帰って来たイスラエルの民、彼らがもう一度神様にあって回復していくまでの話。かつてバビロンに捕囚されていたイスラエルは70年の後に、神様の助けのもと、解放されました。当時のペルシャの王クロスの内に神様は働かれ、覇権を握っていたバビロンを討ち、イスラエルは解放されていきます。まさに目に見えない神様のバックアップがここにあったのでした。
ところが、現地に帰って神殿再建を始めようとすれば、捕囚中に住み着いた住民の妨害にあい、また捕囚中に荒れ果ててしまった土地で生活をしていく上で現実を見てしまい、神様神様言っている場合じゃない、そんな夢物語を見ている場合じゃない、と神殿再建の手を止めてしまった。いつ、神様の恵みが来るかわからないんだから、今はそんな事よりも生活再建をしよう、と。そんな彼らに向けて神様は↑のように語ります。
神様は語られる。「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」と。あなたがたを悩ませる問題や敵、痛みや何かを全部ひっくり返すような神様の祝福、大いなる御業が降る、と。枯れ果てた彼らの町も、生活も、すべてを神様の大雨をもって回復させる、と。
ちなみに、「後の雨」というのは「春の雨」とも言って、収穫の前に降る大切な雨です。でも、ある日突然回復する、それまで神様が放置する、と言うわけではなく、その前に「後の雨」があるのです。私たちは中々神様は私たちの方を向いてくれない、私たちに応えてくれない、と疑う。イスラエルの民は神殿建設、神様を求めるのを辞めたけど、神様の手は決して止まっているわけではない、神様は私たちの目に見えない中でもその背後でいつも働かれているのです。
ある映画で、こんな事を言っていた。「雨が降らないからと、畑の手入れを辞めてはいけない。雨が降ってから畑の準備をするのではなく、雨が降る前に畑の準備をしよう」と。それはそうですよね。今年は天候が悪いかもしれないから、農作業は適当にやろう、辞めよう、では収穫は絶対できません。雨が降ってからでは遅い。
仮に今、収穫が無くてやっている事が虚しく感じるような事があるかもしれない。でも、私たちが、どうせ神様は何も答えてくれないんでしょう?と神様を求める事を辞めてしまったらどうでしょう?もしくは、今神様が働かれているのに、神様なんか信じたってどうせ何にもならないでしょう?と神様の御心から離れ、どうして神様がくださる最高の恵みを、勝利を、回復をいただくことができるだろうか?そんな夢物語なんか期待してどうするんだ、と諦めて祈ることを辞めてどうします?
でも、神様はすでに後の雨を降らせてくださっているのです。実は。↑の時でいうなら、神殿を建てなおし、神様が住まわれるところで、すべては回復していく。↑の約束を見るなら、勇士ではない者が勇士のように「強められる」。その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。
でも、それは私たちにも注がれる約束でもあるのです。イエス様が来られたことによって実現されている。まあ厳密には聖霊様なのですが。神様から私たちが離れ、神様の命を私たちは失ってしまった。本来神様が我が子に大切なものを授けるように、備えている大雨、祝福を、恵みを、失い、世によって傷つけられてしまった。罪、サタンによって縛り付けられてしまった。しかし、私たちが滅びではなく救い、神様の命を収穫できるよう、神の御子イエス様が人となって降って来られたのです。
イエス様は救われてから何か良い事をする、のではなく、まず降って来られ、多くの人に恵みを注がれ、癒され、励まされ、力づけ、導かれていった。でもそれだけでは終わらず、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれたのです。私たちが支払わなければならない罪の刑罰をその身に背負われ十字架に架かられ死なれたのです。
とんでもない話。でも、枯れ果てている私たちを神様は見捨てる事が出来ない。まず、神様は御子イエス様を十字架に架けられたのです。先にその愛を注がれた。あなたが罪に、世に、サタンによって心も魂もくだかれていく事をねたむほどに見逃す事が出来なかった。神様がどうして今、私たちを見捨てている、などと言えます?何で神の御子が、罪人のためにいのちを捨てる必要があるの?と普通は考える。でも神様はまずあなたのために救いの道を用意されたのです。死で終わらずイエス様が復活されたことによって、死んだ身体は、魂は、イエス様の命によって、よみがえりによって再び息を吹き返すのです。
イエス様はこうおっしゃられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。私たちはこの復活のイエス様に繋がって、初めて永遠のいのちという実、また神様の御心、いのちの実を結ばせていただくのです。この十字架によって、私たちはイエス様に繋げられ、その内に聖霊様が働かれ、あなたを導かれるのです。
神様を信じる、期待するのはばかばかしい、と感じるかもしれない。それでも後の雨の時神様を求めよう。やがて神様は完全なる御国が完成しますが、その前味を私たちは今、後の雨を、イエス様の命ゆえにいただき味わわせて頂けている。雨が降ってから畑を準備するのではなく、雨が降る前に畑を備えよう。今前味を味わいながら必ず最高の収穫の日を迎えるから。神様との関係と言う神殿を建てるのを辞めず、日々繋がり、生かされ歩もう。このイエス様の名を誇り歩もう。
