「宣告。主のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、そのとどまる所。主の目は人に向けられ、イスラエルの全部族に向けられている。これに境を接するハマテにも、また、非常に知恵のあるツロやシドンにも向けられている。ツロは自分のために、とりでを築き、銀をちりのように積み、黄金を道ばたの泥のように積み上げた。見よ。主はツロを占領し、その塁を打ち倒して海に入れる。ツロは火で焼き尽くされる。…わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる。ヤワンはあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする。…その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。」
ゼカリヤ書9章1-17節
昨日も書きましたが、神様は私たちを寄せ付けないような方ではなく、懐の広く、招かれる方。私たち自身が神様に向けている刃を降ろす時、私たちの内に神様の平和が訪れる。イエス様はあなたを招かれるために来られた。今日、私たちはイエス様の元に行こう。イエス様は優しく遜られた方。
さて、バビロン捕囚後のイスラエルの回復に向かっていく出来事の中で語られた神様の約束シリーズの続き。バビロン捕囚から解放されたイスラエルは、神様の助けによってバビロンを討ったペルシャの王クロスの助けもあり、イスラエルに帰還し、もう一度神様がこの国を栄光に満たしてください、と願い神殿再建を始めます。昨日一昨日の投稿のように、まさに老若男女再び町に帰り、神様の多くの恵みの中歩む、神様のご支配が、ご統治が、平和がまさに満たされる、いのちあるものとなって行く。
建物と言うよりも、まさにこの神殿の再建は神様との関係の回復の象徴でもあったのでした。何より、クロスを通して神様ご自身が働かれ、バックアップしている、まさに神様の導きの中、今彼らはあったのでした。
ところが目をあげ現実を見てみれば、捕囚中に住み着いた住民たちの妨害、また現実生活を考えても、今は神様の事など考えられない、そんな夢を見ている暇があったら現実を見ようよ、とその手を止めてしまった。
そんな彼らに神様はあきれ返り、昨日のことばを借りるなら、裾野を閉ざすのではなく、恵みの門を閉ざすのではなく、むしろ招かれていた。↑のように。↑の前半はイスラエル、神様を信じ慕い求める民を打ち砕こうとする者たちへの裁きの宣告。これは、神様を信じる者にとって心強い話ではないでしょうか。裁きと言うと怖いイメージがありますが、逆に信じる者にとっては救いの宣言となる。
まさにそれが↑の後半の神様の約束にあるんです。↑のロバに乗って来られる方、と言うのは実は、まさにこの前までクリスマスの話でも分かち合っていたイエス様に他ならないのです。イエス様はまさに懐の広い方、神様であられるのに、我は神なり、我をあがめよと、高い見下す神様として来られたのではなく、むしろ人となって生まれてきてくださった。最も近い、近寄りがたい存在ではなく、むしろ近寄りやすい身近な存在となって来てくださった。
そんなイエス様がエルサレムという首都に近づく時、民は王として招き入れようとした。ローマ帝国打倒のリーダーが来た!と。しかしイエス様はそのような王として来られ、打倒するために来られなかった。それなら軍馬とか、立派な馬に乗って、人々からあがめられるような者に乗って来たでしょう。しかし、人となって生まれてきたことも然り、ロバに乗って来られたのは、まさに平和をもたらす、神様との和解をなすために来られたのです。ロバ、親しみのある、近寄りやすい身近な存在として、私たちの内を訪れられたのです。
何のため?私たちを裁くため?剣で打ち砕くため?違う。むしろ、私たちの内側にある、それこそ↑のイスラエルの現状で言えば、彼らを苦しめる何か、現状の生活、思い煩い、これらを「神様の御心によって」撃ち砕き、神様の御心をなし、回復させてくださる。また、何より私たちの内を巣食う罪、サタンをまさに打ち砕くために来られた。剣によって?とんでもない、なんとイエス様はご自身が打ち砕かれた。私たちの罪の身代わりに、むしろ身代りに十字架にのぼられ、↑の裁きの宣告をご自身の実に受けられたのです。ご自身のいのちをもって、神様と私たちを和解させ、平和を成し遂げるため、神様の御心が、御国が私たちの内になる事を何より願って。
このイエス様の十字架による救い・復活による和解の前に、あなたの内にあるあらゆる問題は、もはや何もすることはできない。世も、サタンも、剣も、はだかも、迫害も何も。これらはイエス様が打ち砕かれる。十字架によってこれらは裁きの宣告を受けている。今すぐその勝利の瞬間は訪れなくとも、この復活のイエス様が一緒に戦い、やがて最後な御国が完成する。サタンの完全敗北の日が来る。それは遠い未来かもしれない、でもその計画を持つイエス様と一緒に、私たちはその日に向かって今歩む事は赦されている。イエス様が一緒にこの道を歩んでくださる。
そのためにイエス様は歩みのゆっくりなロバに乗られている、遠い近寄りがたい存在ではなく、身近なイエス様、インマヌエル(神様が共におられる)方となって来られたのです。何よりあなたと神様を和解させてくださるため。
「望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。…その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる」。私たちはこの約束をイエス様の命にあっていただくことができます。2倍?それどころじゃない、私たちはこの世から受ける傷の回復どころか、2倍どころか、10倍、100倍と大いなる恵みを受け、神様の栄光が、御心が、それこそ宝石のごとき輝かせてくださるよう、神様が造りかえてくださる。罪の奴隷ではなく神様の子とされ。
私たちはこのイエス様にあって栄に満ちた喜びをいただく。今日、私たちはこの神様のところに帰ろう。神様はそのとりで・神様の家族に招くため、今日もその門戸を開かれている。2倍、10倍、100倍の恵みを、輝く栄光、神様の御心を、いのちを、今日いただき、歩もう。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる」。この恵みの到来を待ち望み、喜び歩もう。すでにイエス様にあって、この勝利の前味をいただいているから。