―神の御子イエス様の住まう場所― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ。ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」

ミカ書5章1-4節

 

クリスマスシーズン。東京から北海道に引っ越して、またこの北海道の中でも私の家周辺と街中に出た時の、盛り上がりの差を感じる今日この頃。でも、本当のクリスマス、キリストの誕生は、全ての人の光となり照らすために来られた。あなたの内にイエス様は住まいに来られた。どこか遠い国の話でも、フィクションでもない、あなたのために神様の愛です。

 

さて、↑は今から約2000年ほど前にお生まれになられたイエスキリストの誕生について預言されたものです。↑は、特にどこの場所で生まれるのか、ということについて神様が具体的に勝たれたもの。ただ、ちょっと気になるのは、今彼が語られている時代というのは、アッシリヤによって北イスラエルが滅ぼされたころ。南ユダにもその脅威が迫っている中、そんな未来にどこどこに生まれる、なんて言われて何の励ましになるのだろう?足しになるのだろう?

 

これ、私たちもそうですよね。今現状知りたいのはそれじゃない、未来の話ではなく、今どうにかしてくれ、と。うん、その気持ちは分かる。そういう意味で↑の預言は本当に励ましになる、と私は思う。

 

という事で↑の預言に話は戻して。神様はそんな彼らに対して、救い主誕生の預言を語られた。それは、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」と。

 

「ベツレヘム・エフラテ」ってなんだ?と思うかもしれませんが、これはかつてイスラエルの王としてとくに偉大だったと評されるダビデ王が生まれた場所でした。2代目の王。初代の王は別な氏族(ベニヤミン)だったから、彼の生まれた当時は王族でもなんでもないし、しかも昨日も書きましたが、ダビデの先祖たちには遊女もいれば、あまりにひど過ぎて、神様の民に10代経っても入れる事は許されない、と裁きの宣告をされた部族出身の人もいた。とても目に留められるような部族ではなかった。

 

でも神様は、この小さな部族に目を留め、王としてこのダビデを用いられた。ただ、時と共に廃れていき、もはやこの町・ベツレヘムは寒村となって行った。王たちが神様から離れ、ますますその町は、国は、小さくなっていった。アッシリヤや敵国、また不安、重荷、様々なものが支配しているうちには、決して命は、光は輝かないのです。

 

でも、そんな誰にも目にも留められず、命を失われていった一族から、神様は支配者、御子イエス様を起こす、と約束された。この場所から、もう何もかも失ったようにしか思えないような場所に、神様の栄光、いのちを輝かせる、と。イエス様がお生まれになる、イエス様がお住まいになる、神の御子が。これ、すごい話じゃないですか。この方が住まわれるからその家は、私たちは輝くのです。

 

ちょっと話は逸れるのですが、イエス様はじゃあ実際どんなところに生まれたのか?これ、すごい話。神の御子です。王宮?ベツレヘムという場所にある王宮?違う。とんでもない、なんと、暗い、暗い洞窟の中でお生まれになられた。しかも、家畜たちが鳴き、その香しい?家畜のにおいが溢れる。ベッドは?家畜のえさを入れる石でできた入れ物。信じられます?イエス様はそんなところでお生まれになられた。小さい、どころの騒ぎじゃない。もちろん実際に小さな町、しかもベツレヘムの更にさらに、誰にも目に留められないような場所に。

 

信じられるだろうか?しかもその両親の血筋には遊女だったり、神様から裁きの宣告を受けた民、悪王、とても神の御子イエス様の血筋として、家系図として選ばれるのによいものではない、王族の地は多少引いていても、とても目に留められるような一族ではなかった。

 

だからそれを今、この言葉を語られた窮地にいる民にとって何になる?と思った人が当時いたかもしれない。これを読んでいる方の中にもいるかもしれない。別にその人を責めるつもりはないのですが、でも、神様はこの一族の中に神様の計画が今推し進められている、見捨てていない、だからやがて未来に起こる。起るよう神様が導かれているのです。確かにその預言は未来の実現。でも、神様の計画は今も彼らの内に働かれていた、一族だけじゃない、今危急の中にいる民たちの内に神様が必ず支配者、本当のいのちをもたらす支配者、かつて王国を栄えさせたダビデ王以上の王の王を生まれさせる、そう宣言されているのです。

 

一昨日も昨日も書きました、また↑に「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」とあるように、御子イエス様はぽっと出で生まれてきたわけではなく、永遠の昔から存在されていた。神様はある時だけ働かれるのではなく、私たちの内に住まい、その栄光をもたらしたいと、御心を、愛を、御力を現したい、住まいたい、と何より願われているのです。

 

ベツレヘム、それはパンの家、という意味。家に、私たちという家に、私たちの置かれている場所という名の家に、イエス様は出でて、支配、というかこの世の権力者的な支配ではなく、いのちをもって養われるのです。あなたにパンを食べさせてくださる、御子イエス様の命、愛、御心、御力、そのご計画を私たちに味わわせるために、イエス様ご自身があなたの内に、私たちの内に住まわってくださるのです。

 

その実現が、まさにかのクリスマスだった。遠いどこかの時代、地域の話ではない、誰かの話ではない、あなたの内に神様の命が溢れるため、来られた。「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及」ばせるために。最も小さな赤ちゃんとなって生まれてこられた。神様の御子であられるのに、最も大きな立場を捨て、最も小さな者となられ、仕えられるために。そして住まわれ、生きられた。最も身近に来られて。

 

そうしてご自身の愛、御力を、住まわれながら、私たちの内に味わわせてくださった。でも、一時的なものだけではない、あなたの罪があるうちは、神様から私たちが離れているうちは決して神様の本当のいのちを受ける事などできない。死にゆくだけ。だからイエス様は私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれたのです。あなたの内に住まい、導くため、あなたの罪を取除くため、身代わりに神様の罰、死を背負われた。でもそこで終わらず3日目によみがえられたことによって、私たちと神様を和解させてくださったのです。そして、信じるすべての人のうちに、この復活のイエス様が住まわれ、あなたの内側から、魂から造りかえてくださる。「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及」ばせる、その約束を果たされるのです。

 

イエス様は、あなたを住まいとすることを選ばれ、あなたの罪を取除き命を与えるため、ご自分のいのちさえ惜しまず与えられた。このイエス様の命を持って買い戻された今、私たちはなぜ神様から離れられるだろう?私たちはこのイエス様をお迎えし、イエス様の下さるパン、御心、御力、ご計画を味わいながら歩ませていただこう。クリスマスはフィクションではなく真実なる神様の愛が形になって現された者、この愛を今日いただこう。小さなあなたも、イエス様が内に住まわれる時、あなたはイエス様にあって大きくされる。この確信に立ち、今日も歩もう。