「ダリヨス王の第四年の第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。そのとき、ベテルは、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを、主に願うために遣わし、万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねさせた。『私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。』すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。『この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。エルサレムとその回りの町々に人が住み、平和であったとき、また、ネゲブや低地に人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げられたのは、次のことではなかったか。』ついで、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。万軍の主はこう仰せられる。『正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。』それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。『呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない』と万軍の主は仰せられる。『わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを追い散らす。この国は、彼らが去ったあと、荒れすたれて、行き来する者もいなくなる。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。』」
ゼカリヤ書7章1-14節
クリスマスまであと10日。まあ実際のクリスマスは12月25日ではないんですが、イエス様の誕生、愛、救いを改めて覚える、というのが本当のクリスマスかな、と思うところ。日本でもクリスマスを「イベント」としてでも多少認知されているのはある意味で感謝だけど、ただ、何となくのイベントで終わり、何となく賛美を聴いて、でも、25日が過ぎたらもう終わって、今度は新年の準備、初もうでへと向かっていく。でも神様のクリスマスへの思いって何だったんだろう?と↑の箇所を読んだときに改めて考えさせられました。
↑は紀元前518年。6章までより少しだけ時間が進んでます。バビロン捕囚から、神様の助けもあってクロスを通して解放され、今イスラエルに帰還していました。そして、クロス自身も神様の神殿が建てられ、神様がこの全地を治めて下さる事を願い、イスラエルをサポートし、イスラエルも神殿再建を始めました。ソロモン神殿と言う名前の方が一般的かな?
しかし現実神殿再建をしていても、現地住民の妨害があったり、実生活の問題でそんな神様神様している場合じゃない、と、まず生活再建を始めた。気持ちは分かる、まず生活が何とかならないと、と言うのは人間の本音かもしれない。そんな彼らに、神様は預言者ゼカリヤを通して、幻やその言葉をもって励まされた。これまでも行ってきましたが、神様は神様。嘘はつかず言われたことは必ず果たされる方。
そう、神様は形だけの、宗教のような形骸化した関係を持ちたいなどとは決して思わない。そんなに後回しにするなら、私も後回しにするよ、と離れていくのではなく、まず神様はその憐みを示され、語られた。事実、神様は彼らの目に見えないだけで、その生活をも支えていたし、↑に書かれているペルシャの王ダリヨスを通してもすべてをサポートし続けていた。神様の恵みは尽きる事などなかったのです。
↑で民たちは「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか」と聞きました。どれだけ断食すれば(宗教的行為)、良い日が訪れるのか?そういう思いで質問してきたのでしょう。泣かなければならない…確かに問題がある中で、神様が何もなされていない、と不安になっていた。
そんな彼らに神様はこう答えられた。「この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか」。彼らは自分たちの現実を見つめて生きているけど、神様を見ず離れていた。神様は捕囚中も、今原住民に邪魔をされようとも、神様が守り導き、養っている、この現実を、神様と言う現実を見ていない、ある意味で、神様を断っていた。
神様を断っているところにどうして喜びがあるだろう。どうしてそこに喜びがあふれるだろう。そもそも神様は、何一つ私たちに恵みを断つ事はない。私たちに日々の養い、恵み、愛をいつも注がれている。それを断つ事はない、私たちはこの神様のくださる恵みによって生きるのです。これを食べて食べて生きるのです。
神様の求める本質的な断食ってなんだろう?彼らのような形骸化した宗教じゃない。あれしたら、これしたら、これをして?そうじゃない。私たちはこの世の、神様から離れて生きている、自分の思うままに生きる、その罪の道を「絶つ」、神様に立ち返り、この本来食べるべき神様のいのち、愛を、一つ一つのことばを食べながら生きるのです。私たちが悲しみに支配される中に神様は、私たちにいのちをくださる。
イエス様は、「神様の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれらに加えてこれは一切与えられる」とおっしゃられた。神様は衣食住、私たちの必要すべてをご存知で養ってくださる、それに関して心配する必要はない、むしろ、私たちは↑の後半にあるように、「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな」、どのような場面にあろうとも、神様の誠実を求め、神様に委ね生きる時、確かに神様の御心が現されるのです。
神様は、彼らに求めるように、まず神様ご自身が正しい裁きを行われ、誠実を尽くし、憐れまれる。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげず、悪をたくらまず善を行われる。と言うよりも、神様から離れている私たちみなしごを、神様は憐れまれ、御子イエス様を遣わしてくださった。神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、それらを断ってでも、人となって生まれてこられた。そして、私たち一人一人を尋ねながらその食べ物、いのちを、癒しを、必要に答えて行かれた。
でもそこだけではない、御子イエス様は、私たちが神様から永遠に立たれ、死にゆく事が無いよう、神様のいのちを与えるため、御子イエス様の命を十字架で立たれ死なれたのです。とんでもない愛、憐れみ。なぜ神様を離れ好き勝手に生きている私たちに?でも、神様はそれでもあなたにいのちを食べさせたかった。罪の赦しによって、あなたと和解し、ご自身の子として招かれ、その食卓に着かせ、その天にある全ての恵みをもってあなたを養われる決断をされた。それが本当のクリスマスであり、救いなのです。神様の愛は形骸化されたイベント的クリスマスではない、命がけの究極の愛。クリスマスケーキやプレゼントの代わりに御子イエス様の命が捧げられた。
御子イエス様が3日目によみがえられたことによって、和解が成立した。裁いて終わりではなく憐みをもって、罪を断ち神様に帰りたいというすべての人を引き上げ神様の子としてくださるのです。
私たちは長年生きてきた罪から離れ、神様を神様としない、自分ファーストの歩みから離れ、神様のこの命をいただき、神様のくださる一つ一つの御心をいただき、養われ、歩もう。神様の御心が成る事を祈りながら。