「私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。『主よ。これらは何ですか。』御使いは答えて言った。『これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。そのうち、黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬はそのあとに出て行き、まだら毛の馬は南の地へ出て行く。この強い馬が出て行き、地を駆け巡ろうとしているのだ。』そこで彼が、『行って、地を駆け巡れ』と言うと、それらは地を駆け巡った。そのとき、彼は私にこう告げた。『見よ。北の地へ出て行ったものを。それらは北の地で、わたしの怒りを静める。』ついで私に次のような主のことばがあった。『捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取り、その日、あなたはバビロンから帰って来たゼパニヤの子ヨシヤの家へ行け。あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、彼にこう言え。【万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。】その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿のうちに残ろう。また、遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建て直そう。このとき、あなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。』」
ゼカリヤ書6章1-15節
子どもの頃歌っていた曲で、「線路は続くよ~ど~こまでも」というのがあったのをふと、↑の御ことばを読みながら思い出しました。神様の愛は、神様のご計画はある一時で留まるものではなく、終わるのではなく、永遠に続く。だから、私たちが疑って神様との関係を止めてはいけないし、私たちの手で神様の御業を止めてはいけない。神様の計画を最後まで見れる者は幸い。
さて、↑はBC520-519年頃に語られた神様のことば。当時、イスラエルの民はペルシャの王クロスの助けの元、と言うよりも神様自身がクロス王を助け、バビロンを討った、その体験から神様を自らの主として受け入れていたんですが、彼らはイスラエルに帰還を果たしました。クロス自身も神様を体験し、この神様がさらにこの地を豊かにして下さる事を願って神殿建設を許可し、援助をします。
ところが、いざイスラエルに帰ってみて、さあ神殿を建てよう、神様の栄光が、御心がこの地にあるように、と始めていると、既得権益を求め近づいてきた現地住民によって妨害をされます。さらには、その妨害に加えて生活も困窮し、神様神様言っている場合じゃない、神様が自分たちに何をしてくれるのか?まず自分たちのやるべき事を進めてから神様の話にしよう、そんな状態になってしまった。
そんな彼らを神様は励ますため、ゼカリヤを遣わし、励まします。ご自身の計画を、ゼカリヤを通して幻を持ってみせるのです。その幻の一番最後が↑。神様は、4つの戦車を4頭の馬にそれぞれ引かせ、遣わしていきます。「神様が」全地に遣わしていった。それは、神様が全地に及びご自身の目を留め、神様の御力を現していく、と。神様の力強いメッセージです。神様の御手の及ばないところはない。私たちがどんなにどうしたらいいのかわからない絶望下にあっても神様が、ゼカリヤたちのように誰かを遣わしたり、クロスやダリヨスにまでその愛を現され、救いに招き、彼らを通して助けたり。
私たちは目に見えて神様は助けない、目に見える結果がほしい、とすぐに求めるけど、神様はちゃんとその御手を伸ばされ、何かをされている。神様のなさることは点ではなく直線、続いているのです。私たちが勝手に曲線、落ち込んでグラフを下げているだけで、神様はいつもあなたに計画を現されている。いや、むしろ私たちが沈んでいるような時にはそこまで馬を、神様ご自身の御力を現され、救い出される。あなたを討とうとする何かを神様ご自身が討たれる。怒りが過ぎ去る、それは神様の平和がそこに成されたからです。
神様は↑の8番目の幻で終わります(預言はまだ続いていくんですけど)。じゃあ神様はもうその目を離したのか?場所は分かった、でも時間は?神様のなさる事は全て、時にかなって美しい。8番目の幻では終わらない。1-8番目と、ずっと続いていたように、「線路は続くよ、どこまでも」のごとく、神様の計画は、途中で辞める事はないんです。
8番目の一番最後の幻、厳密にはその後半でその事がよく現されている。この最後の幻の中で神様はこのようにおっしゃられた。「万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある」と。
この1人の人こそ、御子イエス様。神様はただ御力を現すだけではなく、一時的に助け手、一時的な再建で終わるのではなく(この後更なる攻撃をイスラエルは繰り返し受けて行きます、ギリシャ、ローマ、と)、そんな苦難の中にあってもなお神様の御手は、あなたがたへの思いは止まっていない。だから最高の救い主イエス様を遣わす、と約束されたのです。その芽が栄え出、実を結ばせ、平和を成し遂げて行く、と。
まさにこれは今から約2000年前のあのクリスマスに成就した。成熟した木ではなく、若枝、人となって生まれてこられた、赤ちゃんから。信じられない苦労を追いながら育った。上からではなく、徹底的に遜り、仕え、同じ重荷を、神の御子でありながら人として追ってくださった。そして癒され、励まされ、導かれ、また悔い改めに導き…
でも、それはただ癒すためではなかった。神様との和解、平和を成し遂げるためだった。そもそも神様を神様とせず好き勝手に歩んでいる私たちこそ滅ぼされるはずなのに、神様はむしろ私たちと和解、平和を成し遂げるため、私たちが世の思い煩い、様々な問題によって、何より罪によって、サタンによって傷ついたこの私たち自身と言う神殿を建てなおすために、私たちの傷を、重荷を、罪の代価を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれたのです。代わりに打ち砕かれた。十字架で。
しかし、3日目によみがえられたことによって、その神殿は建て直された、イエス様をあなたの救い主として、罪の贖い主として信じ受け入れるなら、あなたもまたこの新しい復活の恵みに与る。復活のイエス様があなたと言う神殿に住まわれ、建て直され、あなたの内に神様との和解をなさせ、平和を成し遂げてくださる。神様の御心、御力、愛があなたを覆う。この時、世は何するものぞ。
あなたを通して、イエス様の御心に信じ従う中で、あなたの神殿から、前半の4匹の馬のごとく、御国がググッと広がって行く。このイエス様の道からの前に世は、サタンはもはや何もできない。私たちが神様を信じないでどんなに自力で何かを進めても、神様不在ではいつか崩れ去る。思ってもいなかった事だって起る。神様の計画は私たちの目にはもうダメ、と思う事でも続いている。
やがて、イエス様はもう一度この世に来られ、全ての悪を、サタンを打ち砕き、完全なる御国を完成される。そこにはもう涙も悲しみも何もかも打ち払われる。今もこの計画は続行中。この完全なるご計画の一端を私たちにも現される。今日、私たちは神様を疑うのを、神様の御業を止めるのをやめ、イエス様を王として迎え、主の前に冠を献げ、王として迎え入れよう。