―与えられる恵み、除き去られる恵み― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私が再び目を上げて見ると、なんと、巻き物が飛んでいた。彼は私に言った。『何を見ているのか。』私は答えた。『飛んでいる巻き物を見ています。その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです。』すると彼は、私に言った。『これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる。』『わたしが、それを出て行かせる。―万軍の主の御告げ―それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。』私と話していた御使いが出て来て、私に言った。『目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。』私が、『それは何ですか』と尋ねると、彼は言った。『これは、出て行くエパ枡だ。』そして言った。『これは、全地にある彼らの罪だ。』見よ。鉛のふたが持ち上げられ、エパ枡の中にひとりの女がすわっていた。彼は、『これは罪悪だ』と言って、その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた。それから、私が目を上げて見ると、なんと、ふたりの女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、彼女たちは、あのエパ枡を地と天との間に持ち上げた。そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。『あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。』彼は私に言った。『シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。』」

ゼカリヤ書5章1-11節

 

私たちは時に喜びがあり、時には辛く感じる日がある。でも、神様が必ずこの涙を拭い去ってくださる日が来る、この確信に私たちは立たなければいけない。私たちの恐れの霊を立ち去らせ、キリストの命に満ち溢れ、歩もう。

 

さて、↑はしばらくぶりのゼカリヤ書、BC520年頃、バビロン捕囚から解放され神殿再建に取り組んでいた頃のイスラエルの民に語られた神様の幻です。クリスマス時期にちょっと厳しい内容で、ちょっと分かち合うに躊躇する内容ではあるのですが、本当に素晴らしい約束が↑に示されています。

 

BC537年に、ペルシャ帝国の王クロスを通して神様はイスラエルを解放、彼らは捕囚地に帰って、もう一度神様の栄光が現れる事を願い、神殿再建を始めます。しかし現地住民の妨害にあったり、彼ら自身も捕囚によってボロボロになったとし、自分たちの家を見、自分たちの生活と言う現実を目の当たりにして、再建の手を止めてしまったのです。

 

クリスチャンでも時々落ちるんですけど、神様を信じたらどんな利益を私にもたらすの?そういう話だったら聴くよ、と言って神様自身を見つめない。神様が共にいるという事を夢物語、そんな事よりも現実現実、となりやすい。神殿再建で、神様の栄光を求めた、と言いましたが、それが何?と考えやすい。神殿再建をしたときに得る利益の話なら喜んで聞いてくれるかもしれない。

 

そんな彼らに向けて、神様は多くの幻を見せ、また↑の幻を見せながら励ましたのです。何か罪だのなんだの、と読むと、距離を置きたくなる。裁きの話などなおさらの事でしょう。でも、自分が罪がのぞき去られる、ってすごい話なんです。あ、↑の2つの幻は一言で言うとそういう事なんですけど。

 

1つは、私たちの周りにある問題、罪、サタンの支配が除き去られる。ちょっと中身を見ると、偽りごと、盗みという問題を除き去る、と。でもそれだけじゃない、「巻物」とあるように、御言葉その者から、神様の恵みから引き離そうとする問題を離れさせる、ということ。「神様との関係を」盗み去ろうとするものや、神様のいのちを盗み去ろうというサタンを、離れさせる。今、神殿再建を現地住民に妨害され、現実問題の苦しみ、重荷を離れさせ、勝利させてくださる。

 

実にそれは↑の後半の幻にも表れているのですが、↑のシヌアルの地というのはバビロンの事で、これらの罪はバビロンに運び去られる、しかも、4章の幻と合わせれば、やがて世の終わりの時、最後に偽キリスト、サタンが内在して現れる偽キリストを、このシヌアルの地で完全に打ち砕く、と。

 

まあ最後の解説はちょっとややこしいと思いますが、要するに、最後は神様は全ての罪を、悪を、打ち砕いて神様ご自身が治める完全なる神殿を再建される。昨日の話と合わせるなら、あなたの涙を拭い去る、最後の最高の御国を建て上げてくださるのです。

 

神殿再建途中では確かに色々あるかもしれない。私たちの歩みだってそうです。確かに色々あります。でも、神様は今その最高の神殿再建を計画されながら、私たちはそのプロセスにいる。私たちはその前味を味わわせていただけるのです。今利益をもたらさないから、神様なんか夢の中の話、物語だ、と片付けるのではない、私たちがそうして神様を侮る思いを、神様に去らせてもらう必要があるのではないか。

 

そうなんです。結局もう一つの去らせられるもう一つの罪、私たち自身の罪が去らせられなければ私たちは神様の命を回復する事はできない。私たちの周りの問題だけを神様に去らせてほしい、と思うけど、私たち自身の内にある神様との関係も聖められる必要があるのです今直前に書いていた事、胸に手を当てれば誰しもがグサッとくる話でしょう?私だってこんな事を書いていながらグサッと来た。だから、この箇所を飛ばしてはいけない、難しいから、と思わずに分かち合わせていただきました。

 

神様と罪は同居できないのです。ちょっと冷静に考えて、泥棒、殺人犯と一緒にあなたは住みたいですか?いや、ちょっと厳密には話は違うんですけど。罪、と言うのは犯罪だけを指すのではなくて、神様から離れている事、自分の思いを優先させて、聖書ではこう書いてあるけど、私はそのやり方には従えない、と言う不従順など等。分かりやすく一言で言うと、神様を神様としない事です。そんな思いがあって神様は住んでほしい、これは論理的に瓦解します。

 

でも、神様は↑の約束を完成させたい。あなたと言う神様の最高の作品、子が神様の建てる最高の御国に住まわせたいと思うのは当然でしょう?またはその前味、恵みを注ぎたいと思うのは親として当然じゃないですか。だから神様は、かのクリスマス、私たちの罪を完全に拭い去らせるため、御子イエス様を遣わしてくださった。私たちの周りにある問題、重荷、悩み、痛み、涙を拭い去らせるため、御子イエス様が人となってお生まれになってくださった。そして同じ重荷を背負い歩まれ、癒され、励まされ、導かれていった。まさに神様の恵みを現してくださった。

 

でもそこで終わらず、私たちの一番の問題である罪、死、これを完全に去らせるため、御子イエス様にこの罪の代価を背負わせ十字架に架かられ、死なれた。身代りに罰せられたのです。あり得ない愛を、↑の幻を、このイエス様の命をもって成就されたのです。それだけじゃない、3日目によみがえられたことによって、拭い去られて、終わり、ではなく、復活の恵み、新しいいのちを私たちに賜った。サタンはもはや力を失う。終わりの時に最後に滅ぼされるその日には完全に。

 

イエス様を救い主として信じ受け入れるすべての人をこの復活の恵み、神様との和解に与らせてくださり、神様の子としてくださる。もう取り去られる罪の奴隷ではなく、神様のいのちに招かれ、復活のイエス様があなたの内に住まい養い導かれる神様の御子へと引き上げてくださったのです。廃墟に住まう者ではない、罪に壊れた神殿ではなく、神の御子イエス様があなたを建て上げてくださる。全ての悩み、思い煩いは一切神様によって新しくされ、神様の御心が、いのちが、あなたの内に現される。

 

私たちは時に喜びがあり、時には辛く感じる日がある。でも、神様が必ずこの涙を拭い去ってくださる日が来る、この確信に私たちは立たなければいけない。私たちの恐れの霊を立ち去らせ、キリストの命に満ち溢れ、歩もう。キリストの勝利を今日、受け取ろう。