―救いのために、偽りから救うために― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。『私は大いに悩んだ』と言ったときも、私は信じた。私はあわてて『すべての人は偽りを言う者だ』と言った。主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。」

詩篇116篇8-14節

 

私たちの涙はやがて拭い去られる。この瞬間かもしれないし、少し先かもしれない。でも、一つ言える事は、今のその旅路にはイエス様が一緒におられる、と言う事。喜びの声をあげよう。あなたの杯は神様の恵みでいっぱいにされているから。

 

とすみません、体調不良がまだ続いているのでゼカリヤ書の分かち合いは、体調次第と言う事で。次分かち合う予定の5章はもう、本当にすごい事が書いてあるのですが、今しばらくお待ちを。

 

と、話は戻して、↑の詩は本当に力強いな、と思います。まあ私自身も今体調を崩しているから余計にそう感じるのかもしれないんですけど。人が癒されるには、もちろん自己治癒力なるものもあるのですが、医者が必要です。神様自身が私たちのお医者さんとなってくださる。そして、私たちの魂を生き返らせ、その目から涙を拭い去らせてくださる。なんと感謝な事だろう。

 

私たちは治療途中であるとき「この人はやぶ医者だ」となどと言えない。神様はあなたを愛し、あなたを造られた。そんな神様は親が子を見捨てられないように、あなたを見捨てることなく、あなたに命をあふれさせたい、それこそ↑にある杯を、神様の最高の恵みで満たしたいんです。それにも関らず、どうして、この神様は偽物だ、わたしに良い事をなさらない、などと言えるだろう、その途中で。

 

神様が偽りなのではなく、私たちを偽りの悩み、苦しみで悩ませる世、サタンと言う存在、その辺がぴんと来なくても、様々な思い煩いによって、私たちを苦しめるような事があるかもしれない。でも神様は、あなたを今日も導かれているのです。

 

実は黙示録という、イエス様ご自身が弟子ヨハネに見せた未来、預言の中でこのように語られた。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、また彼らの神となり、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」と。

 

実にイエス様はこのゴールをすでに持っている。計画している。全ての思い煩い、罪、サタン、これら一切を最後は打ち砕き、栄光ある神様の国が、もはや涙も何もかも拭い去られるその日が必ず来る、と約束された。そこに私たちを招こうとされている。

 

でも、未来の話じゃないか、ともしかしたら思うかもしれない。ずっとエズラ記やハガイ、ゼカリヤでも分かち合ってきましたが、そんなこと言ったって現実そうじゃないじゃないか、と思う民も致し、事実そう思いたくなる事など山ほどある。

 

でも、神様はじゃあそれまで我慢しろ、と言うのかと言ったらそうじゃない。むしろその前段階として、今から約2000年ほど前、神の御子たるイエス様を、あのクリスマスの時、人となって生まれさせてくださった。いや、もっと昔、天地創造のはるか昔から存在し、助けてきてくださったんですけど。神様は、私たちの現実を無視せず、帰って人となって生まれて来られて、同じ重荷を背負い、私たちの涙を知る神様となられた。でもそれだけじゃなく、具体的に今目の前の涙も拭い去られるべく、多くの奇跡をなされた。癒され、また導かれた。

 

でも、そこで完成じゃない。だってそうでしょう?人生1個問題が解決したら、もう一生バラ色、そんな人見た事が無い。罪がある以上、無理でしょう。その問題の大小の差異はあっても。しかしイエス様は、私たちと共に歩まれる事を選ばれて、人となって生まれてこられた。また、神様との完全なる和解を果たすべく、私たちの抱える最も重い問題、罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれたのです。でも3日目によみがえられたことによって、信じるすべての人の罪を帳消しにし、神様と和解を果たしてくださった。

 

罪がある人が罪の身代わりになる事はできない。でも罪のない御子イエス様がわたしたちの身代わりになられたことによって、その罪は良しとされた。私たちは神様と和解させてくださったのです。私たちと言う、↑でいうところの杯を、御子イエス様の命によって満たしてくださった。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、その命と共にすべての「神様の目から見た」良いものでいっぱいにしてくださるのです。

 

今は涙する日かもしれない。今は疲れ果て倒れている時かもしれない。しかしイエス様はあなたの側に来られ、立ち上がらせ、涙を拭い去ってくださる。そして、先程引用した黙示録の御国の完成、その前味を御子イエス様があなたの内に住まわれる中で現してくださる。だから私たちは、↑の詩人のように、「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう」と告白し、神様から新しくされたこのいのちを力の限り、イエス様と共に歩もう。イエス様を主と告白し、この誓いからもう離れず、歩もう。