―ジェラシーな神様― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ダリヨスの第二年のシェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。私が、『主よ。これらは何ですか』と尋ねると、私と話していた御使いが、『これらが何か、あなたに示そう』と私に言った。ミルトスの木の間に立っていた人が答えて言った。『これらは、地を行き巡るために主が遣わされたものだ。』すると、これらは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えて言った。『私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。』主の使いは答えて言った。『万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。』すると主は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。私と話していた御使いは私に言った。『叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。【わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。】それゆえ、主はこう仰せられる。【わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。―万軍の主の御告げ―測りなわはエルサレムの上に張られる。】もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。【わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。】』」

ゼカリヤ書1章7-17節

 

神様の愛、それは口先だけ、見せかけではない、時に語られ、時に幻として見せ、でもそれは幻では終わらずに、実行に移される。神様は、熱愛、ジェラスの愛をもってあなたを心配され、あなたのところに来られた。私たちはこのイエス様をお迎えしようではありませんか。

 

さて、↑は預言者ゼカリヤを通して神様が語られたことば。大体BC520年頃、バビロン捕囚から解放され、イスラエルに帰ってきた民。そしてかつて栄光輝いていた神殿(世間ではソロモン神殿の名で通ってますね)を再建しよう、神様の栄光が、神様の御力がこの地を覆う事を願って再建を始めるのでした。

 

しかし現地住民たち(もともとイスラエルの民が住んでいたのですが、アッシリヤ・バビロン捕囚によって連れ去られた間に住み着いた民)が既得権益を求めるも、それに応じないイスラエルを徹底的に攻撃し、15-6年中断する事となります。また、捕囚から帰って来たばかり、イスラエルの民も自分たちの生活がままならなく、その手が止まってしまうのでした。

 

捕囚された間に占拠された土地、また生活の問題、せっかくバビロン捕囚から、神様の手によってペルシャの王クロスが解放し、しかもその王お墨付きで、神様の神殿を建てて言い、バックアップもする、と約束をしていただいているのに、一体どうしたらいいんだ、そんな絶望下にある中、神様はハガイや↑に登場するゼカリヤと言う人を遣わし、彼らに神様がその目を向けておられる事、神様が持っているビジョンを見せ、語られるのです。その一部が↑。

 

最初にも書きましたが、神様の愛はいつも止まる事はありません。私たちが神様との関係を辞め、自ら止めてしまう、と言う事はあっても神様は私たちが生きる事を願っている、一昨日も書きましたが、神様は、動き続けているのです。

 

↑で神様はゼカリヤに幻を見せますが、別に夢、実現しないようなものではなく、実行されます。神様と言う存在は夢物語の中に存在するのではなく、現実に存在する方です。この差は大きいですよ?神様を夢物語と考えるか、本当に存在し、あなたを導いてくださっている事を信じるか。今の現実を見たイスラエルが、こんな時にそんな夢物語のような事を、神など信じたって何になる?ではなく、神様が、私たちの内にその道を備えている、ビジョンを見せながら、このビジョンの中を私たちは今歩んでいる最中なのだ、その事を示されたのです。

 

でも、ただ夢物語を語るのではなく、ダリヨスに仕えるダニエルを通して神様に立ち帰ったダリヨスが、イスラエルに協力をして再建を手伝って行きます。必要な物資を与えて行きます。神様の私たちに備えている道、一歩一歩、一日一日に神様の恵みが備えられている、私たちに必要な日々の糧を、衣食住全てにおいて与えて下さっているのです。

 

実際、↑でゼカリヤが見た第1の幻、「ひとりの赤い馬に乗った人」。それはやがて来られる、というよりも今から約2000年ほど前に生まれてこられたイエス様、この神の御子たるイエス様がわたしたちのために来られようとしているその姿を見せるのです。

 

神様が遣わされたイエス様は全地を行き廻り見て行きます。しかし、世の支配によって、こんなものか、偽りの平和、現実しょうがないよね、どうせ神なんていないんでしょ?神様が何をできるの?しょうがないじゃないか、と憂えている民、私たちのために御子イエス様は行動に起こされる、と。私たちを取り巻く問題、重荷、罪、を打ち砕く、と。神などいない、と神様を求める人たちを苦しめる一切を打ち砕き勝利を収める約束を示されました。

 

神様は、この計画を見せながら、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した」とゼカリヤに語るように、あなたをとらえる暗闇、闇、重荷、問題、何よりサタンの手に妬む。だから黙っておられない。だからゼカリヤの時は確かにまだイエス様の誕生は見ていない、でも神の御子を遣わしてでもあなたたちの内に平和を成し遂げたい、神様の最大の良いものを散り乱れさせたい、あなたの内に神様との和解による慰めによってもう一度回復させたい、させる、そう誓われた。

 

神様は、あなたを熱愛をもって愛し、実行される。神様は語られる事は実行に移される方なのです。夢幻で終わらせない。ゼカリヤから約500年、御子イエス様にあって、この幻は実現され、さらには終わりの時にはイエス様の治める完全な御国が完成する(専門用語では千年王国と言う)、その一端を私たちは、ゼカリヤがイエス様の誕生前に味わわせていただいたように、私たちも味わう事が出来るのです。

 

神様は、その愛を、言葉を、ご計画を、御子イエス様にあって実行に移された。今から約2000年前のクリスマスに。そしてかの赤い馬に乗った人が全地を練り歩いたように、私たちの間を歩かれ、私たちの内にいのちをもたらされて行った。口だけではなく具体的に癒されたり、蠅まされ、力づけたりもされた。でもそれ以上に、御子イエス様が私たちの重荷を体験され、身代わりに背負われ十字架に架かられた、しかも私たちの罪の代価を。そして身代りに十字架で罰せられ、死なれた。

 

しかし同時に3日目によみがえられたことによって私たちへ向けられたサタンの敵意、罪の呪い、この世の思い煩い、一切を打ち砕かれたのです。あなたが御子イエス様の前に悔い改めイエス様を、この赤い馬に乗られた、十字架で血潮を流されたイエス様を受け入れるなら、あなたの内に復活のイエス様が住まわれ、あなたの内に慰めを、あなたに神様の御心、良いものを散り乱れさせてくださるのです。一部だけじゃない、あなたの生涯にわたり。

 

神様の熱愛はあなたの内に、神様の怒りが罪にサタンに向けられた。あなたの生涯をイエス様が共に歩まれ、全地を駆け巡るごとく導かれる。今日、私たちもイエス様によって与えられた新しいいのちを、イエス様のくださる良いみわざを、ご計画を一緒に見、また体験させていただきながら喜び歩もう。