―世界の果てにまで愛を― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アルタシャスタ王の治世に、バビロンから私といっしょに上って来た一族のかしらとその系図の記載は次のとおりである。ピネハス族からはゲルショム。イタマル族からはダニエル。ダビデ族からは、ハトシュ。…ハトシュはシェカヌヤの孫。パルオシュ族からは、ゼカリヤと、系図に載せられた同行の者、男子百五十名。…私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。それで、私はかしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、彼らをカシフヤ地方のかしらイドのもとに遣わした。私は彼らにことばを授けて、私たちの神の宮に仕える者たちを連れて来るように、カシフヤ地方にいるイドとその兄弟の宮に仕えるしもべたちに命じた。私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子孫のうちから思慮深い人、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名を私たちのところに連れて来た。…」

エズラ記8章1-20節

 

私たちは神様なしでは生きていく事はできない。というよりも私たちを養い導いてくださる神様、この方がいるからこそ私たちは生きていけるのです。神様は私たちを捜しに来てくださった。あなたをいのちの道に歩ませるため、導くため。今日、私たちはこの神様から差し出されたその御手を取り、共にいのちの道を歩もう。

 

さて、↑はバビロン捕囚されたイスラエルの民を、神様がペルシャ帝国の当時の王、クロスを用いてバビロンを討伐させて、彼らを解放した、そこからイスラエルが回復して言った歴史の一幕。驚くべきことに、このイスラエル解放、神様から離れ、神様を捨て好き勝手に生きて来た、神様を疎ましく思い捨てたイスラエル、捕囚されても自業自得、そんな風に思われても仕方ない、彷徨うイスラエルを、神様は憐れまれ、見捨てなかった。

 

神様は私たちの事をとても憐れまれます。私たちが神様から離れ、世にあって苦しみの中を歩んでいる姿を、本来神様の子として歩めるはずが、罪の奴隷・サタンの手に縛られたその姿に、内臓がひっくり返るほどに苦しまれ嘆かれる。我慢できない方なのです。

 

だからこそ、捕囚前も捕囚中も、神様は彼らを助け続けた。捕囚前はそれでも神様を捨て続けたのですが、いつも助け手を送り、また多くの奇跡を現しながら、彼らの買える道を指示していた。また捕囚後も、ダニエルなどと言った人を捕囚地バビロンの高官にすることで、イスラエルの民を助けたり、預言者を置かれて導かれ続けていた。そして、脱出に至ってはペルシャの王の内に神様が働かれ、助け出したのですから。

 

それにしてもイスラエルの民にとって、いくら預言があったとはいえ突然の夜明け。一体何があったのか?という感じだったかもしれない。私たちもそう、神様の御手の届かないところはなく、私たちが、一体神様はいつになったら助けてくれるんだ?と思う中でも神様は常に誰かを通して動かれていたり、直接的に動かれるんです。

 

実は今少し触れましたがバビロン捕囚中に高官として置かれていたダニエル、彼を通して神様を信じたダリヨス王は、イスラエルの民が元の地に帰っても、捕囚中に住み着いた民の妨害で苦しんでいる時に助けるきっかけを与えています。また、↑に登場するアルタシャスタ王は、その父君、アハシュエロス王の妻となったイスラエル人エステルとモルデカイの謙遜な働き、復讐心よりも仕えるその姿、また彼を通して働かれペルシャを祝福される神様の姿を見て、彼もまた神様を信じ、彼らを怠ることなくサポートし続けるように、と宣言したくらいです。

 

話しは戻して、↑の時点で、イスラエルは無事に元の地に帰り、神殿も再建が妨害によって15-6年止まっていましたが、神様の助け、ここまで書いてきた多くの助けによって再建は完了していました。ただ、彼らを導く祭司という人、また神様がどんな方なのか教える人がいなかった。私たちは、人生の地図などというものは持ち合わせていない、だから神様なしには決して生きる事はできない、その導き手が必要だった。神殿が建って完了じゃない、神様と繋がり続ける、導き手が必要だった。

 

そこで神様はエズラに彼らの回復のために立ち上がるヴィジョンを与え、当時の王アルタシャスタも、彼を失う事は大きな国の損失と考えつつ、しかし、自分の損得よりも神様が繁栄させてくださる、御心をなして下さる事こそ必要な事、神様の御手が全ての民に及ぶ事を願い了承した、彼の内にも神様は働いていたのでした。

 

↑から現状を見ると、実際神殿は建ったけど、どう歩んだらいいかわからず彷徨っていた、その現状をエズラが嘆くほどだった、まるで羊飼いのいない羊たちを見るかのようだったのかもしれない。かつてイエス様も、民たちが生きているようで死んでいる、霊的に、そのような姿を見て、飼い主のいない羊たちのようにあわれに思ったとおっしゃられたように。

 

私たちが神様を知らないでいることほどつらいものはない。希望がどこにあるか、出口はどこにあるのか、捕囚とか抜きにしたって、私たちの歩みには様々な課題や問題、重荷があるでも私たちは神様を知る時、生きる意味を、自分の存在価値を知る。神様に愛された、愛されている存在であり、神様の子であることを。神様が御心を、ご計画をあなたの内に現そうとしている事を知るのです。そこに、↑では省略しましたが、男性だけで1490名以上の人が遣わされていき、さらに祭司のいない、神様を知らない、どのように歩んだらいいかわからない、この世に希望を見いだせない多くの人たちのところにエズラは派遣していった。神様の愛を届けに。神様のことばを授けて。

 

神様にとってはあなたが神様を知らずに、サタンの手、世の手にとらわれる事を何より悲しまれる。↑でも書きましたが内臓がひっくり返るほどに。神様の御手はだからこそいつでも私たちが知らないだけで伸ばされ、天の御使い、預言者、また誰かを通していつも働かれている。でも、それだけではない、神様はエズラが一緒にのぼってきた1490人にも勝る最も優れた方、神の御子イエス様を遣わされたのです。

 

イエス様はありとあらゆるところに行かれた。というよりも人となって、赤ちゃんから生まれてこられ、全く同じような人が体験する所を通られながら、ご自身の愛を現された。私たちの負っている痛みや何やら、すべてを通られながら歩まれた。貧しさ、片親(若いころにお父さんは召されている)、また公の働きをしている間も、差別を受けている人のところにも、感染病の問題で本来触る事さえ許されない人のところにも、最後は死刑囚の横にまで。

 

御子イエス様は、エズラが捨てた高官の立場どころじゃない、神の御子であられるのにその立場を捨てでも、人となって来られ、罪の奴隷、神様を裏切り捨てる私たちのところに来られ、愛する事を選ばれた。どんなに裏切られ、ののしられようとも。あなたが神様と和解させられ回復するため、神様から遠く離れてしまった私たちを引き上げるため、十字架に架かられ死なれた。でもそこで終わらず3日目によみがえられたことによって、私たちを神様の子として引き上げてくださったのです。

 

そして罪の奴隷から神様の子へと引き上げられた今、あなたがこの遣わされた御子イエス様を救い主として信じ受け入れるなら、↑の1490人にも勝る復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたと神様を繋ぐ、聖霊様が働かれ、この御子イエス様のいのちにあってあなたの内に神様の御心が、御力が、ご計画が現されていく。イエス様は内臓がひっくり返るほどにあなたを愛しいのちを差し出してまで、愛を、日々あなたの内に、滞ることなく注ぎたいと、あなたが帰ってくるのを待っている。あなたを回復されるために、死にまで従いあなたを愛されたイエス様をあなたは受け入れていますか?