「バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。ゼルバベルといっしょに帰って来た者は、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナ。イスラエルの民の人数は次のとおりである。パルオシュ族、二千百七十二名。シェファテヤ族、三百七十二名。アラフ族、七百七十五名。ヨシュアとヨアブの二族からなるパハテ・モアブ族、二千八百十二名。…祭司は、ヨシュアの家系のエダヤ族、九百七十三名。…祭司は、ヨシュアの家系のエダヤ族、九百七十三名。…門衛の人々は、シャルム族、アテル族、タルモン族、アクブ族、ハティタ族、ショバイ族、合計百三十九名。宮に仕えるしもべたちは、ツィハ族、ハスファ族、タバオテ族、…宮に仕えるしもべたちと、ソロモンのしもべたちの子孫は、合計三百九十二名。」
エズラ記2章1-58節
イエス様は1人1人の事を覚えておられる。その思いに地位も立場もない。誰にも目に留められていないような人にさえ、その御目は注がれている。他には代えがたいあなたという存在のためにいのちをかけるほどに。私たちはこのイエス様と共に歩もう。イエス様から離れず。
さて、↑は昨日の続きになりますが(当面旧約はエズラ記から分かち合います)、これはバビロン捕囚にあったイスラエルがペルシャ帝国がバビロンを討ち、その時の王クロス(クセルクセス)によって捕囚から解放され、祖国に帰って行く、まさに国が回復していくという歴史の記録です。
かつてイスラエルはエジプトの奴隷として約400年に渡り捕らえられていましたが、神様の憐みによって救い出され、先祖たちに与えると約束されていた地に彼らは帰ってきたのでした。そして国が建てられ、神様ご自身もその国に住まわれ、彼らを守り、また養い、導いていた。王が目に見えては治めていても神様の助けがいつもそこにあった。しかし、時がたつにつれ、神様の恵みを、昔の話でしょ、この問題は神様なんて信じても役に立たない、と徐々に離れて行った。また高慢になった王は、神とは何者?と離れてった。それでも神様は彼らを憐んでいたにもかかわらず、彼らは最後まで神様から離れ続け、ついに↑の時より約70年前、バビロンによって捕囚されていくのでした(BC586)。
でも、神様は見捨てていなかった。というよりも捕囚にあってから初めて手を差し伸べたわけでもなく、捕囚に会う前から神様はそれでも御手を伸ばし、我に帰れ、といつも訴え、預言者を遣わし、また多くの奇跡、また勝利を収めさせていた、それでも彼らは帰らなかった。それでも見捨てていなかった神様は、捕囚地にあっても助け手を置いたり、現地の高官にイスラエル人を置かせ、幾度となくイスラエル人滅亡の危機から守ってくださっていた。
神様は罰して終わり、ではなかった。それでも彼らが立ち帰る事を何より願い、ついに約束の70年、彼らは解放されるのでした。その方法は驚くべき方法だった。昨日も書きましたが、ペルシャの国王クセルクセスさえ、「神様によってこの勝利が与えられた」と認めざるを得ない方法でバビロニア帝国を討ち、しかも、イスラエルを解放し、彼らの奪われていたいのちと見える神殿の財宝も全部返し、今帰還の第1陣が出発するのでした。
で、↑はその帰還民の数が詳細に記されているわけです。どの部族が何人、という感じで。明日、更にこの数の驚くべき事実をまた分かち合いますが、その前に1つ。それは帰還民の数を概数ではなく、ちゃんと1人1人数えられていた、記録されていた、という事。本当は↑の帰還民の記録を全部書きたいところなのですが、著作の問題でごめんなさい。↑にちゃんと書いておきたいほど本当に詳細に記録されているんです。聞いた事が無いようなマイナーな部族まで(牧師をしていた私でも)。1の位まで正確に人数を数えていた。偉い人だけじゃない、↑にもありますが、門衛に至るまで。
神様のその救いの御手は、確かに、1人1人にあった、1人1人、この救いを忘れてはいけない、あなた自身の心にも記録を残すよう、まさに著者エズラは敢えて残したのではないか、と思う。あなたも、あなたも、神様が導かれているんだ、と。彼らの生涯は、今救われて、捕囚から解放されて終わりではない。これからも様々な苦難がある、私たちの生涯だってそうでしょう?でも、あなたという1人の人は神様が覚えてその手を取られ、導かれている、この事を私たちは忘れてはいけないのです。
↑の帰還者リストの先頭には、ゼルバベル、という人がいます。彼は元イスラエルの王の子孫でした。彼は神様の前に悪を行い、バビロンに捕らえ移されるも、それでも神様は彼を憐れまれ、捕囚先で、エビル・メロダクがバビロンの王位にあった時に立場が回復され、一生の間王の前で食事をするという立場にまで回復された。その子孫でした。そしてその彼の子孫からイエスキリスト様の誕生へと繋がって行った。神様はその約束を忘れていなかった。
ただ単純に王が彼らの先頭となって国に帰り再建へと向かっていくというわけではなく、まさにこの救い主イエス様によって私たち、この世に、重荷に、何より罪によって神様のくださった本来の姿、子としての立場を回復させるため、いや私たち自身を再建させるため、まさにイエス様がわたしたちの内に住まわれ養い導く、その神様の国・御国へと私たちを導かれたのです。神様が王位を彼の子孫から起こすという約束を反故にしなかったという事は、まさに、神様が王として、私たちを守り導く、神様の家族として回復させるという約束が、まさになされたのです。
ゼルバベルを中心に、神様が彼らの民を回復させ、再建させていったように、神様は、私たちを御子イエス様にあって回復、再建してくださります。1人1人を。誰か特別な人だけじゃない、門衛、しもべにいたり、誰の目にも覚えられないような1人にさえ。事実神の御子イエス様は、私たちを世の重荷から、罪から解放するため、人となってお生まれになり、同じ重荷を背負われた。王族ゼルバベルが同じ重荷を背負った以上に、神の御子であられるイエス様が。同じような苦しみの中を通られ、重荷を一緒に背負い、1人1人を訪ね歩き、時に癒され、時に励まし、時に厳しくも悔い改めに導かれた。世に見捨てられるような人のところにさえ訪問された。
でも、そこでは終わらなかった。御子イエス様は私たちが支払うべき罪、神様から離れ好き勝手に生きてきた私たちの罪をその身に背負われた。イスラエルが捕囚にあった、同じように罪の奴隷として捕らえられていた私たちの罪の清算をするべく、御子イエス様は身代りに十字架に架かられ死なれたのです。なぜ何も罪のないイエス様が?それでもあなたの罪の責任を自身が背負われ、身代わりに罰せられ死なれた。
でも死んで終わらず3日目によみがえられたことによって、私たちが負うべき苦しみも全部清算され、↑でイスラエルの民が一緒について言った民が再建されていったように、イエス様を救い主として信じ、一緒についていくあなたを同じように復活の恵み、神様との和解へと導かれるのです。あなたのためにご自分のいのちさえ惜しまず投げ出され与えられたほど愛されるイエス様があなたの内に住まわれ、一緒にこの旅路、再建の旅路を歩まれる、イエス様ご自身があなたを神様の御心の形へと整え、回復させてくださるのです。
その神様の愛はその他大勢の1人ではなく、あなたという1人の人に注がれ、あなたの内に神様の御心が現され、再建されていく。あなたのこの旅路の先頭に立たれるのは御子イエス様。あなたはこの勝利の行列に加えられている、その事を忘れず、今日も歩もう。神様の胸の内にあなたの名前が刻まれている事を、あなた自身もあなたの胸に刻もう。
