「『…こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。』…」
レビ記27章30-34節
私たちは何もない、うまくいかない、何かにつけて不足を訴える。でも私たちはもう一度思い出してほしい。神様は私たちに全てを備えてくださっているという事を。いや、神様の所有するものをあなたに与えて下さっている、あなたに与えられている物がどれだけすごいのかもう一度覚えようではありませんか。
さて、↑は紀元前、イスラエルの民が約400年に渡ってエジプトに捕らえられていた時、神様の憐みによってモーセを通して救い出され、今奴隷から神様の民、要するに神様の家族とされ、今新しい歩みを始めている中で神様が語られた一部が↑。
神様は、ただ救って終わりではなかった。このレビ記でずっと語られるその前には、神様が彼らの民となり、彼らの中に住まう、と約束されていた。ただ奇跡を行う、何か薄い関係ではなく、神様ご自身が住まわれ養われていく、そうして神様の御心を彼らの内に現していく事、それが神様の思いなのです。私はその思いが↑に現れているように感じてならない。
↑を見ると献げ物の話だし、献金とかそういう話はあまり好きじゃない人もいるかもしれないんだけど、でもすごく大事なことが書いてあることを見る事が出来ます。もう一度↑の「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである」という部分に注目してほしいです。
そうなんです。私たちの与えられている物の内1/10は神様にお返しすべきものである、という話なんですけど、その前にそもそもの話が、地の産物も、木の実も、何もかも、みな神様のものなんです。聖書の中の手紙の中にこんな言葉があります。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」。
そう、全部は御子イエス様のために造られ、イエス様がその相続人となられたのです。その本来御子イエス様のものであるはずのものを、私たちに与えられているのです。これ、すごい話だと思いませんか?私たちの周りにある物は与えり前のように見える。衣食住はもとより、家族も、友人も、仕事も、これらは神様が与えて下さっている。いのちだってそう。イエス様にあって私たちは生かされているのです。私たちはこの本来神様のものであるはずのものを与えられている。
神様ご自身が最高のものを持っていないと思いますか?その神様が与えるのは、以前も書きましたが、決してパン屑とか、どうにもならないレベルのものではない。私たちは神様の全部を知らないで、こんなものは役に立たない、神様を信じたって何にもならないじゃないか、と思う。でも私たちは1/10は神様のもの、というけど、神様の愛を私たちはどれだけ知っているだろうか。
私たちはこの神様がくださっている物に、どうして「良い悪い」を言えるだろう。どうして取り替える事が出来るだろう。いや、そもそもの話、私たちは神様の良いものを受けるに値する物ではなかったのです。だって私たちは神様を自分の価値観で、秤で、役立つ、役立たない、と考え、まるで召使、下手をしたら操り人形のように考えて神様を神様とも思わず好き勝手に歩む。そんな私たちにどうして、じゃあ良いものを与えよう、と思えるだろう?
でも神様は、そんな汚れてしまった、罪に汚れてしまった、また様々な重荷で苦しみ疲れ果ててしまった私たちを見過ごす事は出来なかった。それこそ、エジプトの奴隷で苦しめられているイスラエルの民を見捨てる事が出来なかったように。罪に、サタンに神様が本来造られたあなたの姿を、いのちを奪われた、それを取り戻すべく、取り換えるべく、十字架上でイエス様は交換をしてくださったのです。私たちのいのちと、御子イエス様のいのちを交換してくださった。人となって来られたイエス様は、多くの人を癒しながらその御心を行われていった。神様の良いものを1つ1つくださった。でもそこで終わってはいけなかった。
良い部分の一部だけを時々与える、それではだめなのです。私たちが神様と和解する必要があった。そのため、私たちの罪の代価を御子イエス様に神様は背負わせる決断をされた。私たちの罪の代価、死を、御子イエス様に身代りに背負わせ十字架に架かられ、死なれた。私たちが、あなたが負うべき死を、身代わりに、交換して引き受けてくださったのです。神様は、この御子イエス様という最高のものを私たちに与えて下さった。
このイエス様の十字架による贖いによって、私たちは罪の奴隷から、神様の子へと立場が交換されるのです。死はいのちに変えられる。復活成されたイエス様と共に、私たちも死ぬべき者から神様の子へとされ、この御子イエス様にあって全ての良きものを備えてくださるのです。私たちのこの新しいいのちは、この御子イエス様のいのちがけの愛ゆえに与えられたものなのです。
イエス様が本来相続すべきものを私たちにも与えられた。地の産物も木の実も、といいますが、この御子イエス様にあって新しく生まれさせていただいた私たちという産物は、この御子イエス様にあって私たちはこれらのものを生み出されていくのです。復活のイエス様のいのちという種があなたの内に植えられ、あなたの内に住まわれ、神様の御心という実が、産物があなたの内に結ばれていくのです。
それらは、この御子イエス様のいのちという、数字では現しきれない偉大ないのちにあって与えられるもの。命がけの愛によってあなたの内に神様は、その家族の内に、職場の内に、友人関係の内に、また当たり前と思っている日々の衣食住の中に神様の御心の実を結ばせてくださる。いや、私たち自身が神様のものとされているのです。
私たちはどうだろう?今与えられている状況、すべてのことについて今日、どう見ているだろう?自分自身についてはどうだろう?今日のあなたはこの御子イエス様にあって生かされている事、私が生きているのではなく今や御子イエス尼があなたの内に生かされ、導かれている、この確信はあるでしょうか?私たちの秤、数字で神様のくださっている一つ一つを測るのを今日、辞めよう。
むしろ、私たちはこの買い戻された命を、1/10どころか、全ての思いをもって捧げて行こう。神様はこれに十分に付け加え答えてくださる。神様の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものは全て与えられる、とイエス様は宣言された。
もし不安があるならイエス様に訴えていい。イエス様はあなたの不安を、重荷を、全部十字架で交換してくださった。あなたを新しくしてくださった。全て疲れた人、重荷を負った人はわたしのところに来なさい、わたしが休ませてあげようとおしゃってくださった。イエス様が交換してくださる。イエス様が一緒にそのくびきを負いながら、世の終わりまで歩んでくださる。その先に豊かな産物、実を結ばせてくださる。私たちは今日、このイエス様の愛にもう一度立ち返り、イエス様と一緒に歩もうではありませんか。
