「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。…ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。…あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」
ローマ人への手紙14章1-23節
私たちは人真似をして生きる必要はない。あなたはあなた、私は私、彼は彼、彼女は彼女…みんなそれぞれ「神様がオリジナルに」造られた。私たちはこの神様のデザインされた、この御心の内を楽しみ歩もう。神様があなたを保って導かれるから。
さて、↑は紀元1世紀、パウロというキリスト教伝道者が書いた手紙の一部です。食べ物の話題、なかなか聖書も面白い事を書くね、と思う人がいるかもしれない。でも、私、これを読みながらすごく感動した。
この手紙の↑の部分は、別に食べ物の好き嫌いの話をしたいわけではないのです。まあ、個人的な話をすると、私も結構好き嫌いが激しい方。ただ、この話は、偶像に一度ささげたものを食べていいかどうか、その食べている人を裁いている人がいる問題についてパウロが指摘しているんです。日本的に言えば、たとえば仏壇に供えた物を食べる人がいる、その人を裁く、そんな話。他にも、たぶん律法という昔定められた食べ物規定に引っかかるもの、それを食べている人を裁いている、その可能性もあるのですが。
でも、ちょっと余談になるのですけど、ある神学校の先生がいっていてなるほどな~と思ったのが、たぶん仏壇とか、異教の中を通らないで自分たちのところに届く食べ物はよっぽど自分たちで作らないとほとんどない。一般の農家だったら、当然あまごいとか、仏壇に祈るとか、様々な中を通って、うちに届いてくるわけですから、それをダメ、と言い始めたら、たぶん私たちはほとんどのものを食べられないよ、という話があって、ああなるほどね~っと思った。
で、ここから大事な話になってくるんですけど、じゃあ逆に、イエス様が十字架に架かられたことによって、食べ物規定は成就(聖められた)されたことによって、すべてのものは聖くされた。だから何を食べてもいい。でも、じゃあ昔神様が定められたから、と言ってそれを食べないでいる人を裁いて良いのか?と言われたら↑でパウロが指摘するようにそうじゃない。その人にはその人の思いがあって、食べない、食べる、と決めている。でもそれって、それぞれ通ってきた文化、生きてきた道が違うんです。でも、その人の価値観ってそんな事だけで決まってしまうの?そうパウロは訴えるわけです。それぞれがそれぞれの思い、形、自分の感謝の思いをこのように現す、と決めてしているだけなのです。
で、↑の箇所を読んでいる時に、ふとさらに思わされたのは、食べ物じゃなくてもそうだけど、人それぞれ性質がある。話すのが苦手な人、空気を読むのが得意じゃない人、あれが得意、あれが不得意、それぞれある。でも、自身を持ってほしい、あなたという人の価値は決してそのようなもので決まるものではない。もちろん、苦手なものが得意になる、それはそれで大いに結構だと思います。成長する、これいいじゃないですか。
私たちは神様によって造られた作品です。知ってますか?あなたは神様ブランドなんですよ?隣にいるあの人も、職場にいるあの人も、みな神様の作品です。その神様が作られた自分自身を、他の人をどうして否定できますか?そんなことをだれがする事が出来るでしょう。私たちは「神様が」自分を、あなたを造られた、この事を受け入れること、これ凄く大事だと思う。
神様のお心によって造られたあなた。これを知る時、私たちは変わっていく。じゃあ神様が造られた私はどう生きよう?神様が作られた私、その作品として、いのちあたえられたものとして、自分の体を、神様に喜ばれるために何ができるだろう?と変わる。神様のために献げる時、あなたの内には神様の素晴らしい御心が働かれるのです。
ただ、逆に神様のそのお心から離れては私たちは本当の意味では生きる事はできない。例えば罪も、これが私なんだからしょうがないでしょう?ありのままで良い、と留まっていて、どうして神様は喜ばれるだろう。神様はあなたが神様の形へと回復していく事を何より願われている。
だから、神様はこの私たちを、罪によって汚れてしまった私たちを回復させるため、癒すため、人となって生まれてこられた。物理的にも癒しを行われたけど、それ以上に私たちの罪、犯罪的な事だけではなく神様から離れ神様を悲しませ歩んできたこの罪、この罪の代価を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれた。でも死んで終わりではなかった。3日目によみがえられたことによって、私たちの死んだからだ、罪によって汚れてしまった私たちをもこの復活の業に与らせてくださり、新しく造りかえてくださる。神様の宮、聖霊様の宮として、聖霊様があなたの内に働かれ、神様の御心が現されていく、まさに新しいあなたとなる。
この御子イエス様のいのちという素晴らしいものが、神様の作品であるあなたの内に留まるのです。あなたという人は、社会のジャッジによって決められるのではない、あなたがこの神様の赦しを受けたなら、あなたはもう神様の子。家族。あなた自身がどのようであろうと、あなたはイエス様のいのちによって買い戻された。そこまでの愛が注がれている神様に大いに期待しよう。義と平和と聖霊様による喜びがあなたを今日、覆うから。
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」。あなたはこの御言葉の前にどう応答するでしょうか?イエス様のいのちがけの愛の前に。
