―神様が耕す新しいあなたに期待して― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」

イザヤ書2章1-5節

 

私たちは自分で世の中を開墾し、戦い、頑張って勝ち取ろうとする。でも私たちは世の中から刈り込んでも神様のいのちは刈り込む事はできない。私たちは神様のくださるそのいのちの内から神様の恵みを、御心を、刈り取る物であろう。

 

さて、↑の時は紀元前。アッシリヤ帝国の脅威にさらされていたイスラエルの民に、神様が預言者イザヤを通して語られたことばです。南北に分かれたイスラエル王国は脅威にさらされ、北イスラエルは捕囚へ向かい、南ユダにもまたその危機が迫っていた頃。イスラエルの民は神様なんか信じたって何になると逆らい、捨て、むしろ神様に敵対する事さえあった。そんな神よりも、もっと現実を見ようよ、と神様を捨て、外交に走ったり(外交は否定しませんが、神様は自分たちの役に立たないと判断)、他の国の神の方が役に立つ、と存在さえしない偽神に走ったり。神など信じても役に立たない、と鋤を剣に変えて生きていた。

 

そんな彼ら等どうして憐れむ価値があるだろう、と普通は思う。ちょっと冷静に考えれば、愛するパートナー(夫婦や恋人でもいい)に裏切られたら、どうやって彼らを憐れむ心が生まれます?ただ、神様は驚くべきことに、そんな彼らを裁いて、ほらみろ、わたしを信じなかったお前たちが悪い、とは言わなかった。裁きの時、アッシリヤ捕囚が来る前に、神様はそれでも憐みを示し、愛している、だからわたしに帰りなさい、そう訴えるのです。

 

ちょっと話は逸れるのですが、↑の神様のことばを読むと、昨日のことばを思い出しますよね。昨日は、神様に敵対する、神様を信じるより頼む者たちを打ち崩そうとする者たちに向かって、「聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ」と、やれるものならやってごらん、でも神様がそれらを打ち破る、という話がありましたね。でも↑は逆。私たちに神様が約束しているのは、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」というもの。

 

神様はね、昨日も書きましたが、私たちが剣を取って戦う、神様など役にたたない、何もしないじゃないか、と神様に逆らう必要なんてない、というのです。神様が、戦ってくださる。神様が、その御心を現してくださる。この国を、イスラエルという国を、もっと身近なところに引き下ろすなら、あなたという人を建て上げてくださるのは、あなたを治めてくださるのは、いのちを溢れさせて下さるのは、神様が成される。神様がその国を、あなたを耕してくださる。だから、あなたの剣を置きなさい、そう神様は訴えるわけです。

 

ちなみに、この聖句は、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」という聖句は、ニューヨークの国連本部にも掲げられているそうです。まあ、いわゆる核が完全に廃絶されるその時はまだ来ていないというか、今は逆行する道を進んでいるのですが。それにそれが完成する日は、終わりの時ですからね。

 

ただ、ずっと未来の話だったら神様はこのアッシリヤが迫る時代にこの話を突然持ち出してもあまり効果はないかもしれない。今、現実に国連がそれを掲げたところで逆行しているし、どうせ無理でしょう、という考えが世の主流になってしまっているように。でも、私たちが剣を取って、それを勝ち取る必要はない。神様が、私たちに恵みを、勝利を、平和を、勝ち取らせてくださるのです。

 

別に戦争の話を↑でしたいわけではない。そんな話をしたいからこの話を分かち合っているわけでもない。私たちは目の前の問題や重荷、悲しみ、様々な戦いの中にあって、戦う相手を間違えてはいけない、神様と闘ってどうします?神様は、あなたという一人の存在を、大切な存在を造り上げてくださった。あなたに命をくださった。そんな大切な我が子のために、あなたという人を、耕し、神様の御心、ご計画という実を結ばせる、収穫させたいと願っているのです。

 

神様は、イスラエルの民に、1つは未来の希望を、そして昨日も書きましたが、そこに向けて神様は今もあなたにその御手を伸ばしておられた。アッシリヤ捕囚に向かう中にあって神様は何度も助け手を送られ、奇跡を起こされ、神様はそれでも彼らを愛している、回復させようとその手を伸ばし続けていた。神様は彼らが、あなたがいのちを失っていく事を諦めてはいなかった。明日は悔い改めてくれるか、明日帰ってくれるか、と耕しながら、あなたとの関係を耕しながら待っておられるのです。

 

その愛は、神の御子イエス様にあって完全に現された。神様から離れて行き荒れ果ててしまった、罪に、世に、様々な重荷に、暗闇に傷つけられてしまった畑を回復させるためにこられた。イエス様は多くの人を癒し、また慰め励まし、また導かれていった。時には2万人近くの人を、5つのパンと2匹の魚だけで満腹にさせたこともあった。神様はあらゆる必要を満たされようとされた。

 

でもそこでは終わらなかった。私たちは神様とのいのちの関係を失っている以上はいつかは滅びゆく。あなたを耕す人がいなければ畑はどうなるか?想像つきますね。でも神様はそこにいのちの鍬を入れてくださった。あなたを剣、裁きで打ち滅ぼすのではなく、あなたを救うために、ご自分の御子イエス様を十字架に架けて身代りに罰せられ、死なせた。信じられない暴挙。怒りの剣を御子イエス様に向けられたのです。

 

でもそこで終わらなかった。3日目によみがえられたことによって、十字架上で神様に見捨てられたはずのイエス様が回復されたように、私たちもまた、このイエス様にあって神様と和解させていただけるのです。死んだはずの私たちの畑、いのちを新しくしてくださり、復活のイエス様があなたの内に剣となって共に戦われ、またあなたという人を、あなたの命を耕し、実を結ばせてくださるのです。神様の恵み、御心、愛…だからもう私たちは剣を置いて良い。神様と敵対するのをやめていい。神様なんて何にもならないと言って自分の剣を取る必要はない。神様があなたを導かれ、切り開かれ、耕してくださるから。私たちはその実を、神様の内からあなたの信仰の鋤で刈り込ませていただけばいいのです。

 

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」。この道はイエス様が切り開かれ、導かれる。あなたのためにいのちさえかけるイエス様が。私たちは今日、「私たちも主の光に歩もう」ではありませんか。神様が結ばせる実、御心、建て上げてくださる御国に大いに期待して。あなたの剣を今日神様にお返ししよう。神様の切り開かれるこのいのちの道を今日も歩もう。