「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」
ガラテヤ人への手紙5章16-26節
私たちは世の理不尽に、あり方にどうしても納得できない事がある。それに押しつぶされそうになったり、悩んだり。でもそこに無理に納得する必要はない。神様が私たちに納得というか喜びを与えて下さるから、私たちはフォーカスを神様に向け、その御声に聞き従おう。神様は、あなたに良い実を結ばせてくださるから。
さて、↑はパウロという人が紀元1世紀、キリストイエス様が十字架に架かられて後復活し、天に昇られ、聖霊様という新しい助け主が降り、教会が誕生したころに書いた手紙。ガラテヤ人、と言いますが、別にその地域の人たちだけに問わずすべての人々に向けて書かれた手紙。
パウロ、彼はバリバリの宗教家で、神を信じているつもりだった。神を知っているつもりだった。しかしそれは知識のみであって、彼の中に神様のいのちはなかった。しかし自分は神を愛しているつもりだったから、救い主というイエスなる人物を彼は赦せず、彼を信仰するキリスト者たちを、パウロは迫害し、殺害に加担するほどの人間だった。しかし、驚くべきことに、復活されたイエス様が彼の前に突如現れたのです。しかも彼を裁くためではなく、悔い改めに導き、彼がずっと捜し求めていた本当の救い主、救い、いのちを与えるために。
パウロにとっては青天の霹靂。まさか。自分が迫害していたイエスなる男が、神の御子、救い主だったとは。イエス様は聖書でずっと預言されていた通りの人物あった。でも彼は決して認めなかった。自分の価値観、神観に合わないから。様々な理由があっただろうけど、しかし彼の人生は御子イエス様に出会って一変した。
彼は宗教家でかなりの有能な人物、地位もそこそこあり、そのまま行けば宗教家のトップにでも上り詰める事が出来るのでは?というくらいの人物。彼にとってはそんなものはどうでもよかった。イエス様のいのちによって神様につないでいただいた。こんな神を神とも思わず、神様が遣わされた救い主を迫害した自分を赦して下さっただけではなく、神様に繋げられ、神様のいのちが、御心が、恵みが彼の内にあふれて行った。もうこれ以上素晴らしい者はなかったのです。
彼はこの手紙の中盤辺りでこのように書き記しています。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」と。他の訳では、「イエスに結ばれ神の子ども」です、と(口語訳聖書)。私たちはイエス様に結ばれた、イエス様と1つにされた。ただ改宗しただの、キリスト教徒になっただの、とかそんな次元のレベルの話ではない。イエス様のいのちは私たちを一変させる、造りかえてくださるのです。それはこの世の価値では測れないもの。
彼はクリスチャンになった後、今度は立場が逆転し、彼は多くの迫害を受ける身となって、何度も殺されかけたこともあった。神を信じ神様の子とされたのになぜ?と思いたくなる。私たちだってそうじゃないだろうか?神様が愛ならどうしてこんな苦しい目に合わなければならないのか、どうしてこんな状況に?と。
最初に書いたように、私たちにはどうしても納得できないこの世の理不尽さ、価値観というものがある。でもね、↑でパウロはいうけど、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興…」。罪の支配する所にはこれらがはびこる。これに無理に納得しろ、理解しろ、自分を合わせろ、ということ自体が無理がある。会社や社会、また現実、辛い中にあると、どうしてもその理不尽さに自分を合わせようと、納得しようと頑張る、でもそんな必要はない。かえってそれでは自分がつぶれてしまう。
パウロは「私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と言っていますが、そこにはいのちがないのです。神様の国の相続は救いに関る事でもありますが、同時にそこに神様のいのちはない。御心はない、そんなところに私たちが無理に心を合わせて疲れ果てる必要はないのです。
あ、別にじゃあ仙人的な生活をしましょう、とかそういう意味ではないですよ?私たちはむしろ、「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」とあるように、私たちはイエス様に繋がれ神様の子とされた、この神様の相続させていただいた恵みに生かされる、私たちの内に復活のイエス様が住まわれ建て上げようとしてくださる計画、御心にフォーカスすべきではないでしょうか。そこにはこの世の如何ともしがたい理不尽な価値観とは全く対立する神様の恵み、いのちがあるからです。
イエス様にあって相続させていただくその恵みの中に神様は、「御霊の実…愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」をあなたの内に結ばせてくださるのです。自分の愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制以上に、神様ご自身がこれらの御霊の実を結ばせ、私たちが生かされていく。このいのちをあなたは相続するのです、御子イエス様のいのち、救いと共に。神様はあなたの内に天の御国をそうして、復活のイエス様を通して御霊の実を、御心を結ばせていく事によって、あなたをそのような理不尽な世の中にあっても輝かせ、いのち溢れさせる、この世の価値観では打ち立てないような驚くべき神様の御心をなさしめてくださるのです。
私たちはかつては神様への対立者、敵対者だった。しかし御子イエス様はそのような私たちの罪を身代りに背負われた、私たちを取り囲む理不尽、暗闇、罪・サタンの支配から解き放ち、イエス様に繋がれ、神様の子とするために、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれた。そしてよみがえられ、そのいのちをもって私たちを神様の子として迎え入れ、神様と和解させてくださったのです。あなたに罪の刈り込み、実を結ばせるためではなく、神様の御心を、愛を、結ばせていくために。その神様の御心があなたの内に現されたのです。あなたは御子イエス様にあって神様の御心、財産、御子イエス様のいのちと共にすべてを相続させていただく者とさせていただいたのです。
この世の理不尽に合わせないことはこの世への屈服ではない、あなたが御子イエス様の十字架、救いの前にひれ伏す時、どんな時にもイエス様の前にひれ伏すなら、神様の御国があなたの置かれた場所に建て上げられ御心が成る、勝利の瞬間となるのです。私たちはこの世の理不尽の前に、サタンの前に、罪の前に屈服する必要はない、私たちがひれ伏すべきは神様の前、十字架の前にのみではないか。神様が私たちを納得させるような大いなる驚くべき恵みに私たちは大いに期待しよう。