―その道はイエス様が切り開かれたから― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

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東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「…パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。『エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。【私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。】事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。』それでモーセは民に言った。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』主はモーセに仰せられた。『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。』…そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。…」

出エジプト記14章1-31節

 

神様はあなたにいのちを与えられた。いや、完成品に魂を吹き込んだのではない、神様ご自身があなたを作られ、あなたにいのちを与えて下さった。なら、私たちは今どんな場所にあろうとも、この神様が与えて下さった、導かれたこの場所、道を恐れることなく歩もう。この道を開かれるのは、導かれていくのは神様なのだから。

 

さて、↑はかつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として捕らえられていた頃の話。この頃のエジプトの王ファラオはイスラエルの民を恐れ、彼らを奴隷として捕らえました。約400年に渡り。しかし神様は彼らを見捨てなかった。神様はモーセを通しご自身の大いなる身力を示され、ついに神様はエジプトからイスラエルの民を救い出された、その直後が↑。

 

エジプトの王ファラオがようやくイスラエルが旅立つ事を容認したのに、すぐに態度を翻し、イスラエルの民を追って来たのです。しかし、今イスラエルの民が目の前にしているのは紅海。彼らは完全な絶望に立たされていました。↑のイスラエルの民が不安になっている姿、なんとなく分かりますよね。

 

今回の千葉の台風被害は本当に大変。台風は過ぎた後、長期間にわたる停電によって閉じ込められ、いつこれが終わるのかという不安に晒され、さらには壊れて行った家に絶望を覚える。私の兄2人も千葉で被災。普段強がりを言う兄も、今回ばかりは本当に参っている。私の生まれ故郷でもあるし、本当に心を痛めています。

 

ただ、神様はこうおっしゃられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。」と。

 

神様が、これから目の前にある閉ざされた道を開かせてくださる。モーセの力によるのではない、神様がその道を開かせ、彼らをとらえ恐れさせるエジプトを討ち、そこから新しい道へと進ませる、だから恐れてはいけない、と。神様が開かれた道を、「一緒に進もう」、と。

 

私たちにとってはその辛い日はすぐに終わらないかもしれない。でも神様が彼らのいのちを救おうと連れ出し、導かれた今日という日、その日を切り開かれるのも、一緒に進まれるのも神様なのです。神様はあなたにいのちを与えられた。神様ご自身があなたを作られ、あなたにいのちを与えて下さった、私たちと一緒に歩もうとしてくださったのです。

 

しかし私たちは神様から離れてしまった。たぶん胸に手を当ててみれば自覚はあるでしょう。こんな事を書いている私だもです。でも神様は人を見捨てなかった。霊的なエジプトに捕らえられた、罪の奴隷として罪の支配下に縛られた私たちを神様は憐れまれ、救いに来られた。人となって生まれてこられた。神様はあなたのその暗闇の中にまで降って来られ、あなたの手を取られ、一緒に歩もうとされた。時に慰め、時に癒し、時には叱責しつつあなたを励まされ。

 

しかしそれでも神様のいのちから離れて行く私たちを、その罪を背負うべく、十字架に架かられに行かれた。罵られ、裏切られても、私たちを見捨てず、あなたを罪の底、裁きから救い出すべく、身代わりに十字架に架かられ死なれ、陰府に降られ、そこまでしてでもあなたを救いに来られた。命がけで、神様は罪に閉ざされた暗闇の中からあなたを救いに来られたのです。

 

あなたがこのイエス様を救い主として受け入れるなら、あなたはもう新しいイエス様が一緒の旅路にいる。イエス様はあなたと一緒に進まれ、その道を切り開かれる。閉ざされた海を切り開かれる。この先だって様々ある、私たちの人生だってそうだ。でもイエス様が、あなたのためにいのちを投げ出されるイエス様が一緒なのです。あなたの今日という日に、あなたがどこにいようとイエス様がいる。このいのちは、イエス様がいのちがけで取り戻された者、その道は命がけでイエス様が切り開かれたもの。この先イスラエルの民のために日々養われ、時に助け手を与え、時に共に戦われ勝利を収められていったように、私たちの旅路を同様にイエス様が一緒に進み導かれるのです。

 

今日、モーセが言うように、私たちはイエス様の救いを見るべくしっかりと立とう。イエス様の救いは必ず来る!というよりもすでにイエス様があなたを救い出され、あなたはイエス様の御手の中守られている。この確信にしっかり立とうではありませんか。だってあなたはもうイエス様のものなのだから。神様が紅海を割ったあの風があなたの内に拭き、開かれる事を期待しよう。

 

最後に一つの詩を紹介しますね。

「あしあと」

 

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません』

主はささやかれた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。』」