こんな時だからこそイエス様(胆振東部地震体験を振り返って6) | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

↓は、昨年北海道胆振東部地震を被災した当時、神様が語りかけてくださった御言葉、また当時の様子です。1周年は過ぎても今も苦しんでいる人がいる、また昨年今年、またここ数年災害も多く、苦しんでいる人もいる、また災害じゃなくても多くの悩みや苦しみの中にいる人がいる。そんな人たちになにか1つでも励ましになれば、と思い昨年の投稿をシェアしています。良ければお読みください<(_ _)>

 

(96日未明の北海道大震災で被災をして6)

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」

ヨハネによる福音書1711-15節

 

9/6未明に起きた北海道大震災。今日で7日。私も帯広で被災し、停電や物資の不足、何より目に見えない疲弊が出てきている。私の住んでいることろはまだいい方かもしれない。あるところでは地盤沈下で家に住めない、2m位陥没した、液状化で住めない、家族を失った…本当に様々。停電ばかりに何やら目が行っていますが、実際は人の心が一番疲れ、疲弊している。物の不足以上。

 

こんな時、神など信じたって何になる、そんな思いに本当に陥りそうになる。色んなあれやこれやに目が奪われていって、今は神様を信じている場合じゃない、あれをしなきゃ、これをしなきゃ、と神様がなされることを私たちは疑い忘れる。神様はこんな時何もしない、と疑って。

 

でも、この被災した中で与えられた↑のみことばは本当に励みになりますね。↑はイエス様が十字架に架かられる直前、一人で神様に祈っていたときのないようなのですが、この時イエス様は十字架に架かられて後、苦難にあって行くであろう弟子たちのために「予め」祈られたのでした。

 

イエス様の知らないところで苦難が起こるのではなく、イエス様はあらかじめ知っておられたから、弟子たちのために祈った。この先のところではさらに、後に生まれてくる人たちのためにも祈ってくださった。イエス様は私たちの苦難困難のことを知らないのではない。むしろ知っていて私たちのために祈ってくださっていたのです。

 

その祈られた中身を見ると、イエス様は神様の御名の中に給ってください、と祈りましたが、この保ということばには、神様の深い愛が込められています。これは守る、とか大事にとっておく、保護、保持、見張る、監視する。一見なにか強制的にがんじがらめにされているような関係に見えるわけですがそういう、首根っこをつかむ関係ではなく、愛の関係の中で保護してください、とイエス様は祈るのです。危険ではないか見張ってください、罪に陥ったり、道を見失ったりしないよう守ってください、と。

 

本来私たちは自分勝手に生き、神様から離れ、神様とのライフラインが切れてしまった、断絶状態にある罪人なんです。でも、イエス様は見捨てられない、罪人である私たちにそう祈られるのは、まさに十字架ゆえの愛、哀れみなのです。兄として、大切な弟である私たちのために十字架に架かるから、だからどうか、彼らの罪を赦し、守ってください、と。見捨てないでください、と。わたしが彼らの身代わりに十字架にかかりその罰をこの身に受けますから、どうか彼らを赦し、保護して守ってください、と。

 

今までイエス様が地上にいる間は、弟子たちはイエス様と神様が1つゆえに、神様の守りの中に健全に守られていましたが、今ユダが裏切ったように、イエス様が世を去った後、残された弟子たちが悪いものによって脱落しないか、とイエス様は心配し、祈られているのです。

 

確かに、彼らは曲りなりに、イエス様のことばを神様のことばとし、真実だと信じ受け入れ、救い主として信じました。しかし、これだけでは彼らは駄目だったのです。これから裏切り、また恐怖におびえます。だから神様、あなたが世にいる彼らに、また私たちを特別にお守りください、と願っているのです。信じられます?裏切るとわかっている弟子たちのためにさえイエス様は祈られたんですよ?

 

私たちには霊的な戦いも含め、世にあってはいろんな戦い、問題があります。聖書を読んでいるから大丈夫、と言いたいところですが、でもうまくいかなかったり疲れたり、いろいろあります。でも大丈夫なのは、その背後におられる神様がいるから大丈夫なのです。聖書、祈り、また試練の中で信頼関係を築いていく中で、その確信と安心を得るのです。イエス様の十字架、そしてこの祈りによって聖霊様を父なる神様が弟子たちに、また私たちに送られ、住まわれ、その中で守られ、戦っていくのです。私たちの内に神様は喜びを全うされるのです。

 

そう、イエス様は私たちの苦難を知っておられる。そして予め祈られた。はい、そこまでは今書きました通り。でも、そこでは終わらない。祈っておいた、あとは好きにしなさい、とは言わなかった。しなかった。裏切ったからお前たちは知らない、お前たちは自分勝手に生きるから知らない、とは言わなかった。

 

イエス様は復活されて後、その裏切り者の弟子たちのところに行かれた。裁くために?いえ、彼らを悔い改めに導き、彼らを神様の家族として保護するべく、訪問されたのです。信じられますか?いやそれだけではない、後に天に昇られて後、今も私たちのためにとりなし祈ってくださっています。でも、そこでは終わらない、イエス様は新しい助け主なる聖霊様を送られた。神様の喜びを私たちの内に全うさせるべく、私たちの内に住まわせ、神様の御心をなしてくださるのです。

 

私たちのために神様は多くの友を、祈り手を、また必要のすべてを送ってくださった。いやくださっている。だって神様はあらかじめ私たちの苦難を知っておられるのですから、どうして急にえ?大変だ、とはならないでしょ。神様は私たちの必要をすでに準備されているのです。そして私たちを保護してくださるのです。最大の私たちの不足、いのちの不足、死、裁きから保護され、ご自身の家族としてくださった。イエス様は私たちを宝と考え、私たちのためにとりなし祈り、父なる神様が保護し、守られ、聖霊様が私たちの助け主となって今も共におられる。

 

今日、私たちは御子イエス様ご自身のいのちを投げ出してでも私たちを保護されようとされ、ご自身のもの・家族として迎えるべく御子イエス様を遣わし身代りに十字架に架けるほどに愛された神様にこの心を、目を注ごう。こんな時だからこそ、まあいつもですが、こんな時だからこそイエス様を信じ待ち望もう。神様はあなたを知っている。だってあなたは神様の宝なのだから。十字架前の最大の苦難の前にイエス様は祈られたように、私たちも今こそ主を見上げ、祈ろうではありませんか。主の御心が、喜びが満ち溢れる事を信じ期待して。↑のイエス様の祈りはすでに十字架で成就した。私たちはこの主を待ち望もう。

 

(祈り)ああ主よ、あなたは御子イエスさまさえ惜しまず、見捨てられてもおかしくない私たちの身代わりに十字架に架け死なせるほどに愛され、そこまでしても私たちに愛を注がれた、保護されようとしてくださっている。どうか、あなたの愛を覚えさせてください。そしてどうぞ、この十字架にあって成就したイエス様の祈りのゆえに、私たちは受けるに値しないかもしれませんが、それでもあなたを待ち望みます。どうぞあなたの御心を、希望を、愛をもって、私たちを保護し、被災地や、この疲弊した日本、神様を知らずに希望を失っている人たちの上に輝かせてくださいますように。そしてあなたの喜びが満ち溢れますように。