「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』ついで、ギデオンは彼らに言った。『あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。』―殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである―すると、彼らは『差し上げますとも』と答えて、一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどもあった。ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行なった。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。こうしてミデヤン人はイスラエル人によって屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。この国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。ヨアシュの子エルバアルは帰って自分の家に住んだ。ギデオンには彼から生まれた息子が七十人いた。彼には大ぜいの妻がいたからである。シェケムにいたそばめもまた、彼にひとりの男の子を産んだ。そこで彼はアビメレクという名をつけた。やがて、ヨアシュの子ギデオンは長寿を全うして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。…イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった。彼らは、エルバアルすなわちギデオンがイスラエルに尽くした善意のすべてにふさわしい真実を、彼の家族に尽くさなかった。」
士師記8章22-35節
人は神様と取引をする。私はこれだけしたんだからこれだけの事をこたえるのは当たり前だ、と。でも、そもそも神様から身勝手に離れて行った私たちなど神様から何か良い物を受ける資格などあるだろうか?しかし神様はあなたのために最高の愛を注がれた。これに勝る報酬?恵みはなし。
さて、時は紀元前イスラエル王国建国前。かつてエジプトの奴隷として400年近くに渡り捕らえられていたイスラエルの民は、神様の憐みによって救い出され、今、かつて彼らの先祖に与えると約束された地に、ようやくたどり着くのでした。神様は救って終わりではなく、神様ご自身の恵みで養う、その愛を、御心を現す、これこそが彼らへの思いだった。
しかし、彼らはある程度落ち着くと、神様を切り捨てた。神様がくださるものよりも、他の世の中が持っている物の方が魅力的だ、と他の者を頼り始めた。神様は私たちも忘れがちですが、日々、私たちにとって当たり前と思う事をも与え、養ってくださっているんです。しかし、人は大きな奇跡的なものは求めても、それ以外は関心を払わない、というよりも当たり前な事をいつも与え養ってくださっている神様など目に留めない。
結果、ミデヤン人という民が彼らを襲い、支配して行ったのでした。しかしイスラエルの民が神様に助けを求めた時、神様は憐れまれ、ギデオンという人を通してイスラエルの民を救い出し、今ミデヤン人たちに勝利を収め、民族が回復した、そこから↑が始まります。
ギデオンの大活躍、と言っても実際は神様の憐みで見捨てずに彼らのうちにその愛を現したからなのですが、民はギデオンを王として立てようと考えます。結局自分たちに奇跡的な結果をもたら何かを求め自分たちに「仕えさせる」物を求め、その背後で働かれる、当たり前と思っていた彼らですが、神様を捨てたのに憐れまれたことを忘れ神様ではなく、ギデオンの「力」を求める。
でも、↑の後半を見てみればわかる通り、神様が彼の内に働かれるから偉大なる勝利をもたらされたわけであって、一度神様から離れると、ギデオンはなんの力もない、彼が死ねばすぐに他の「力」を求める。ギデオンが死ねば、ギデオンの家族何か関係ない、と恩をあだで返す。
ここでギデオンは自分が王になる事は拒否しますが、彼らに敵から奪い取った金を求めます。自分の働きの報酬として。まあ彼には多くの妻がいて、何十人もの子供たちがいた、その彼らを養うために必要、と考えたのか。そして、着物や宝石などを集めて、エポデという祭司(神様に仕える人が着る服、今でいうなら牧師など)が着る服を作ります。ようするに、神様ではなく、自分が優れている、その栄光のしるしとしてこれを作ったわけです。これだけ神様の偉大な奇跡を体験しながら彼は、神様が彼の内に報酬、というか日々の御心、養いなど何の役にも立たない、と自らを高め、自分に人気が集まって来る事を選んだ。
結果、どうだったか?神様から離れた彼に力はなく、民を堕落させ、淫行に走らせ、というよりもそのような行為でしか幸せが得られないような(それもまやかしですが)そんな状況に国を追い込んだ。だから彼が死んだあと、だれ一人、彼の功績のために何かをしようとなどと民は考えなかった。
私たちが忘れてはいけないのは、神様は、私たちを作られた神様は、私たちを愛して、その子に幸せを願い養う親のように日々、神様は私たちを養い導かれます。当たり前と思う事の1つ1つは神様からの贈り物なのです。私たちはこの世における報いを求めますが、それを受けたところで何になりましょう。むしろあなたに何かを支払わせる、悲しみ、絶望、失望…それがどうして神様の恵みに勝るでしょうか。
しかし、私たちは神様を神様とせず離れてしまった。イスラエルの民が罰を受けて行ったように、神様から離れ、絶望下に閉じ込められていたように、そのような罪から来る報酬は死、永遠の神様との断絶、裁きなのです。本来だから私たちはそんな神様からの恵みを受けるに値しないのです。
しかしそれでも神様は私たちを見捨てられなかった。神様は私たちを愛するが故、何の報酬を受けられるわけではないのにもかかわらず、御子イエス様を遣わされた。裏切られるとわかっていた。事実どれだけ奇跡を行い病を癒し、見捨てられた人に希望を届けようとも最後は裏切られた。でも、神様は私たち角身ゆえに断絶されてしまったこの死の状態、罪の報酬である死を、打ち消すため、神の御子たるイエス様が身代わりにそれを引き受けられた。称賛という報酬どころか、裏切者・罪人の私たちが支払うべき報酬・死を自ら引き受けられたのです。そして死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちと神様の和解の道を切り開かれたのです。むしろあなたがいのちを得ることこそ、神様にとってのある意味での報酬だったのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。このイエス様を自分の罪のゆえに死なれ、またよみがえられた救い主として受け入れる時、あなたはこの和解という最大の報いというか報酬というか、賜物を賜る。この和解された関係の中においてイエス様があなたの内に住まわれ、日々あなたの内に御心を、愛を、御力を現し導かれる、養われるのです。そしてイエス様にある大いなる報いを、実を結ばせてくださる。私たちが無理に報酬を求める必要はない、神様があなたの内にいのちを賜ってくださるのです。
ギデオンに対する民の反応ではない、神様ご自身があなたの内に日々いのちをもたらしてくださる。あなたがギデオンを、自分自身を負うとするのではなく、イエス様を救い主として、あなたの主としてお迎えする時、ここから神様のいのちが溢れて行く、あなたの人生、いや天の御国に行くその日まで。今日、私たちはこの神様を純粋に慕い求めよう。神様の御心が、御国がこの地に、あなたの内に、あなたの遣わされたところになる事をただ祈り求めようではありませんか。