―神様が仰せられたとおりに― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。神は仰せられた。『大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。』神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。神は仰せられた。『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現われよ。』そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。『地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。』そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日。神は仰せられた。『光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。…神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。…」

創世記1章1-31節

 

神様のなさることは私たちの頭の理解をはるかに超えたものです。そして神様は仰せられたことをその通りに成す事が出来る方。語られた事は実行される、愛するというならその愛を行動で示される。私たちはもっともっと神様の御声に耳を傾けよう。そしてこの方がなされる大いなる御心、御業に期待しようではありませんか。

 

さて、↑はこの世界ができる時の出来事。おおよそ6000年ほど前。まあ進化論やらビッグバン説に立つと数億年といいますが、これ、小学校の理科の知識があればその理論がいかに馬鹿げた者かが分かるのですが、多くの科学者たちも神様なくばこの世界はできない事を認めていますしね。

 

話しは戻して、本当は今日、昨日のギデオンの話の続きを書こうと思っていたのですが、昨日の神様の命令では、人数を減らし、神様の御業を待ち望む事を、信頼する事を命じられ、また今日投稿予定だった箇所では、さらにあり得ない方法を神様は取るのです。そう考えた時に神様の御業ってなんなんだろう?と考え↑の箇所をもう一度思い起こさせられたわけです。

 

神様は、この天地万物を造られました。「光・闇・空・海・地・緑(植物含め)・太陽・月・星」、この先はちょっと長すぎて省略(著作の問題もあり)していますが「魚、動物、鳥、虫」そして人間を全て造られた。今私たちが見回して見る者すべては神様が造られた、これ本当にすごいですね。でも、どうやって神様は造られたんだろう、と見ていると、人間を除いてはみな「仰せられた」するとそのようになった、とあります。しかも、神様は「神はそれを見て良しとされた」とこれを見るたびに仰る。神様は良いと思うことをされる、おっしゃられる、実現されるのです。

 

私たちは昨日も書きましたが、人の目にはあり得ないような方法を取られる事があります。こんな小さなことを信じて何になる?と思い神様を人は侮る。それは神様を信じていようといまいと、陥る話。でも神様がなされることはどんな時でもよい事をなされる。人の目にはそんな物よりこっちの方がいい、とマイノリティを否定し、世の視点から考える。でも、パウロという人は、神様を通してこのように手紙に書き残しました。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変え」ていただきなさい、と。私たちはこの世の視点で考えては神様の良さ、御心、みわざを、体験する事は決してできない。

 

神様は、私たちの内に最良の愛を、御心を現そうとされる、して下さるのです。「われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とある通り。神様は、私たちをサルの形や、誰かの模造品、コピーペーストしたものとして造られたわけではない、神様の形に、ご性質に似せて、また神様のイメージ・御心を、その形に現してくださった、あなたとしてくださったのです。役割を与え。この思い、おっしゃられたことを具体的な形として現してくださったのです(ちなみに男性は塵から形づくられ、女性は男性のあばら骨から造られた。そして神様の息吹を吹き込んで、ロボットではなく人と、生きた者としてくださった)。

 

その愛、思いは造って終わりではありません神様は人に食べ物や食料、衣食住を備えられ、また罪に陥りそうになった時には彼を心配して駆けつけ、時に身体が病に侵されれば癒される事もあった。神様は私たちを見放す、見捨てる事が出来ない。何より、神様の最高作品、「非常によかった」という最高の作品であるあなたが、神様から離れ、罪の道に走って行って神様の形を失っていく事、滅びゆく事、死に行く事が神様は我慢できなかった。

 

だから神様は、この愛を形として現すべく、神の御子たるイエス様を人として生まれさせてくださった。どんなに人間が罪を犯しても、このおっしゃられていた約束を反故にされる事なく実現させてくださった。天地創造からイエス様の誕生までの約4000年の間が立とうとも神様はその約束を忘れなかった。破らなかった。そして多くの病を癒され、またその暗闇に光を照らされ、導かれ、時に叱責しながら悔い改め、いのちの道へと導いていった。しかしそれでも神様などいらん、という人たち、神様から離れ、いのちを失っている私たちを憐れまれ、私たちの罪を、どんなに裏切られようとも見捨てずに、十字架に背負って行かれ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれた。しかし、この十字架の死と復活によって、私たちをとらえる罪、裁き、死から私たちを同時に救い出した、引き上げてくださった、新しいあなたとして生まれ変わらせてくださったのです。神様と和解させてくださったのです。

 

神様は、この和解された関係においてあなたに大いなる愛を今日も現されます。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、聖霊様があなたの内に豊かに働かれ、導かれる。あなたへの愛を実現させるため御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えた神様が、今日あなたを本来あるべきいのちの姿へと回復させるべく、今日も語りかけ、またその御心をなしてくださっている。私たちはこの神様の声に耳を傾け、あなたの思考ではあり得ない事であろうとも神様のこの究極の愛からなされる御心に信頼しよう、そして神様の御心があなたの内になり、御国が建て上げられ、神様のいのちが溢れていく事を大いに期待しようではありませんか。神様はあなたを最高の子供として見、その思いを実現しようと今日もあなたの内にかたりかけ、働かれている。