「それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。そのとき、主はギデオンに仰せられた。『あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが【自分の手で自分を救った】と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、【恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい】と言え。』すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。すると、主はギデオンに仰せられた。『民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、【この者はあなたといっしょに行かなければならない】と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、【この者はあなたといっしょに行ってはならない】と言う者はだれも、行ってはならない。』そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。『犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。』そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。そこで主はギデオンに仰せられた。『手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。』そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。」
士師記7章1-8節
私たちは神様を過小評価して、神様はどうせこんなことできないでしょう?と疑う。でも神様は、私たちが思うような小さな方ではない。神の御子たるイエス様を私たちの罪の身代わりにするほどに大きな愛を、大きな計画をあなたの内に成そうとされた。私たちはもう一度神様の素晴らしい愛に立ち帰ろう。このいのちの内を生きよう。たとえあなたの歩みが少数精鋭のようなものであろうと。
さて、↑は一昨日から続くギデオンとイスラエルの民の話。紀元前、イスラエル国家が成立する前。彼らはこの地に住みつく前は、と言っても何百年も前はこの地にイスラエルの民は住んでいたのですが、世界的大飢饉から人々を救い出すべく神様が彼らをエジプトに遣わして、移住していた。しかし、彼らの活躍、神様の偉大さを知らない王朝がエジプトに起こり、約400年の間彼らは奴隷として捕らえられていたのでした。しかし神様の憐みによって、彼らは救い出され、エジプトは打たれ、神様ご自身も彼らと一緒に道中旅をされ、養い、戦いからも守られながら、ついにこの約束の地に帰ってきたのでした。乳と蜜の流れる地、肉的には肥沃な大地、しかし同時に神様が与えた土地、それは神様ご自身が養い守られる地、ここに彼らはたどりつくのでした。
しかししばらくすると神様のその憐みを忘れ、神様なんていなくても生きていけるじゃん、どうせ神様なんてこうした現実問題に何もできないでしょう?できていないから我々は苦しむんだ、と神様を切り捨ててしまった。結果神様の御手が払われたところで、神様が守ってくださっていたから襲ってこなかったミデヤン人が今、彼らを攻めてきていたのでした。
まあある意味ではイスラエルの民はとりあえず何でも頼っておけ、もしかしたら1つくらい当たるかもしれない、的な感覚で様々なものを神としようとした。まあこれ、私たちにもある事ですよね。とりあえずあれこれ八方美人的に手を出してみて、当たればもうけもの的に。様々な心理学、パワースポット、占い、啓発的なもの、宗教などなど。しかしそれらはあなたと関係を結ぶ義務はないから決してあなたをいつまでも助ける事はできない。
しかし神様はそんな彼らを憐れまれた。多くいる人間の中から適当に選んでその愛を注ぐわけではない、また多くの人たちに愛を注ごうとも薄っぺらい中身のないものを注ごうというわけではない、神様は私たち一人一人と関係を結びながら、その大いなる愛を、御心を現したい、注ぎたいのです。私たちはこの神様を侮ってはいけないのです。
神様は、このミデヤン人との戦いに今ギデオンが出て行こうとする際、人数を絞るように言います。ギデオンは自分たちの部族の小ささから、他の部族にも声をかけ、一緒に戦おう、と向かいます。しかし、彼らは、今彼らを遣わしていた神様の御力を過小評価していた。数がいなければ勝てない?違う、神様がその御心をなす時、数の問題ではない、たとえ1人であろうとも、からしだね程の信仰があれば、神様を信じる信仰があれば、山をも「神様が」海に移す事が出来る、2人でも3人でも、それがたとえ少数であろうと、イエス様の御名によって、神様に信頼して集まるなら、イエス様もそこにおられ、その栄光を現して下さるのです。
神様は、「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが【自分の手で自分を救った】と言って、わたしに向かって誇るといけないから」とギデオンにおっしゃられました。むしろ彼らは、私たちは神様なしでは生きられない事、神様がいるからこそ、私たちは生きる、救われる、いのちあるものとなるのです。自分たちが頑張って成功させて生きた者になるのではない、神様が私たちの内に働くとき、世の価値では測れない神様の御心、素晴らしい体験をさせていただけるのです。どんな順境の日も、↑のような絶望的な戦いの中、逆境の日であっても、神様があなたと共にいるなら。
人は、先にも書きましたが様々な偽神や、心の支えになりそうなものを探し、下手な球数を打つ。でも、同時に神様は、私たちを多くの中の一人としてではなく、ただひとりの大切な存在として契約を結ぼうとされた。あなたが惨めに罪に、サタンに、世によって苦しめられ、傷つき倒れ、神様から離れて行った結果その地、本来神様が与えたいと思っていたものを受けられず死に行く私たちを見捨てられなかった。そこで、私たちを取り戻すべく、神の御子たるイエス様が私たちの内に与えられた、人となって生まれてきてくださった。たった一人のあなたと出会い、あなたの内に喜びを、いのちを与えるため。
でもそれは当時もそうでしたが物理的な解決だけではない、神様がもたらしたのは一時的な平安なんてレベルのものではない、私たちと神様の間に和解を果たさせ、私たちが罪の支配から、のりから、裁きから解き放たれ、神様の子として神様のいのち、御心に支えられながら生きる、その事を願われ、私たちの罪の代価、死を身代りに引き受けられた。十字架上で身代りに罰せられ、見合わりに死なれた。そして復活と共に私たちをこの罪の奴隷から引き上げられた。この和解された関係は、御子イエス様のいのちによって保障され、聖霊様の押印をおうけ、保障されているのです。あなたが生きるためなら、とあなたという一人の人を覚え、救うためにいのちを投げ出された。何という大きな愛だろう。
この神様が、今あなたと一緒に歩まれている、あなたがイエス様を救い主として受け入れるなら。それなら、この世から見たらマイノリティ、少数派、何もできないように見えるかもしれない、しかし御子イエス様のいのちにあって結ばれたこの契約、関係においてどうして私たちは恐れる必要があるでしょうか。神様を待ち望め、神様の御心が、自分の力で話せない事でもなる事を願おう。私の計画よりも神様の御心が成る事を。その時、私たちは自分が創造するよりもはるかに素晴らしい神様の勝利を、御業を体験するのです。今日、私たちは仮に少数派と言われようとも、ただ神様の御心を待ち望み歩もう。主があなたの道を導かれるのだから。