―神を愛し隣人に仕える・イエス様の方法― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。』イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか。』彼らは言った。『あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。』しかし、イエスは彼らに言われた。『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。』彼らは『できます』と言った。イエスは言われた。『なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。』十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』」

マルコによる福音書10章35-45節

 

神様は昔も今も一貫して私たちに大事な事を教え続けている。それは、力の限り神様を愛する事、そして自分を愛するように隣人を愛する事。それは私たちが幸せになるため、と。神様はあなたを幸せにしたい、とあなたを招いておられる。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、歩んでいた中であった出来事。イエス様は上から覗いて時々何か助けたり、誰か召使いを送って助けたり、偉ぶることを望まず、むしろ仕えるために人となって生まれて来られました。

 

イエス様は当時イスラエルを支配していたローマ帝国を討ち破って、自分が代わりに王となって支配する、治める事だってやろうと思えばできた。でも、イエス様はそんな支配なぞ無意味だという事を知っている。イエス様は、あなたにいのちを得てほしい、と仕えるために来られたのでした。

 

事実イエス様は自身の足で一歩一歩踏みしめ、暗闇の中にいる人、病の内にある人、社会から断絶され見捨てられた人、神様を知らずに彷徨っている人、罪にさいなまされ苦しんでいる人、イエス様は1人1人尋ねて行かれたのです。

 

ところがイエス様の弟子たちは↑のようにある日、自分たちが権威あるものとなりたい、イエス様が御座に就く時には私たちをその両脇に座らせてほしい、と訴え出たわけです。まあ人はだれでも偉いポストを求めたりするし分からない事もない。でも、イエス様は何を偉そうに、と叱るのではなく、それはイエス様の杯をのまなければならない道である、とたしなめます。イエス様は、あなたがたが権威あるものになる必要はない、と言うのです。

 

イエス様は続けて「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」とおっしゃられた。あなたがたが世にある権威者や支配者たちのように人を支配し、権威をふるってどうします?と。そんなものはいのちをもたらさない、世を変える事はできない、サタンの支配は打ち破る事はできない。むしろ神様の御心が、彼らの内に現される事を願わないでどうするの、と。

 

ふと、この「仕える」というイエス様のおっしゃられたことを考えた時に、ただ下でに出て、へーこらへーこらする事をイエス様が求めている事なのだろうか?と疑問に思ったわけです。続けてイエス様も仕えるために来られた、と言っていますがイエス様は、なんでもいいよいいよ、と受け入れ、罪も、悪い事も何でも受け入れているわけではなかった。もしそうだったら、弟子たちのこの言葉も、仕える者の立場なら受け入れてしかるべきでしょう?でもそうではなかった。イエス様は、神様の御心が、いのちがなるよう、神様の前に遜り、自分の思い、権威をふるう事よりも神様の御心を現されていったのです。

 

私たちのやり方が先行すれば、私たちのしたい事は多少実現するかもしれない。でも、イエス様は、神様の御心が彼らの内に現される事を何より願っていたのです。世の権力者どころではない、この天地万物をすべ治める方が、あなたを愛しあなたにいのちをくださった、造り主なる神様が、あなたの内に持っておられる最高の御心、ご計画、愛があなたの内に、彼らの内に実現する事を何より願っていたのです。当時の民に、弟子たちに、あなたに。

 

私たちがこの神様の御心の前に遜る時、この世にあって生きる中あっても、神様の御心が現されていく。その時、神様の御心があなたを通して現される、神様の栄光が、御力があふれ流れる時、あなたのまわりの問題も、闇も、悲しみもイエス様にあって変えられていくのです。自分が頑張って何とかしよう、と無理しなくてもいい、神様の御心が成る事をただ願おう。

 

でも神様なんて信じたって何になる?と人は思うかもしれない。それに世の中だって隣人愛的な教えはある。でも、イエス様のおっしゃっている事と根本的に違うのは、神様の御心を願う事、神様を愛する事、これが世の中の教えや宗教では根本的にかけている。人間のエゴを押し付けるのは隣人愛なのではない、仕える事ではない。私たち自身が神様を愛する、神様の御心の前に遜る事なしに、神様の御心を願う事なしに、その行為は彼らに何もいのちをもたらさないし、何も変わらない。でも神様の御心は私たちにいのちをもたらす。

 

だって神様の御心は世のレベルとは測り知れない物があるんですよ?イエス様も世の権威と同じ事を願ってどうする、とおっしゃられたように。何せ神様は、自分の奴隷を、召使いとしてあなたを作られたのではない、あなたに愛を注ぐ対象として造られた。あなたにご自身の最高の御心を現すべく。でも私たちは自分勝手に神よりも私の方が優れていると神様を切り捨て、神様の御心などいらないと離れて行った。もうそんな私たちなど、神様の左右の座どころか末席におかせてもらう事さえおこがましいほどの存在だったのに、あなたの罪を赦し、和解するために、私たちの罪を御子イエス様に身代りに背負わせ十字架にかけ、死なせた。そして復活と共に私たちに救いの道、いのちの道を備えられたのです。

 

信じられるだろうか?イエス様は父なる神様の御心に最後まで、死に至るまで従われたんですよ?しかし、それはあなたが神様と和解をし、いのちを得、神様のこの食卓、家族に加えられ、神様の御心が、愛があなたの内に成される、回復していく事を願われての事。そのためなら、と行動に出られたのです。そのいのちをもってしてでもあなたの内に御心をなそうとされている、最高の計画を。

 

私たちが世に出て行き仕える事はある意味では辛い戦いのある杯かもしれない。飲まなければならない杯は。しかし、私たちがまず神様の御心の前に遜る時、剣も闇も悲しみも罪もサタンも立ちおおせることはできないのです。イエス様はあなたのためにいのちがけの行動をされる。私たちはこれほどの神様の愛の前に遜り、神様の御心を、御国がなる事を求め祈り願い、歩もうではありませんか。イエス様は今日、弟子たちにされたようにあなたに尋ねる。「何をしてほしいのですか」。あなたはどう応えるだろうか?