ー一緒に歩かれ、語られる神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕らえないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕らえないのに、地からはね上がるだろうか。町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」

アモス書3章1-7節

 

神様は、あなたと一緒に歩む事を何より願っている。ただ上から見ているだけではない、あなたの内にご自身の愛を語り、御心を現したい。あなたはこの神様の前にどう応答するだろうか?

 

さて、↑は預言者アモスと言う人を通して神様が語られたことばです。大体時代としてはB.C.783~742年くらい活動した人ですね。実はこの時代、ある意味で経済的に大きく成長していました。北の王ヤロブアム2世は、神様の憐みと助けによって一部の領土を奪還し、経済も安定、40年以上にわたる長期政権を持っていました。が、弱者が踏みにじられ、富裕層がうはうは状態。ん?どこか最近の日本に似てない事もないような。

 

そんな北イスラエルに向けて、また彼らを取り囲う国々の罪に対する神様の宣告が、アモスを通してなされていくわけです。その一部が↑。

 

それにしても、余談になるのですが、このアモスと言う人はかなり異色の預言者で、彼はいわゆる神学校と呼ばれるようなところに行っていません。学があるわけでもない、同時の経済成長を考えてもどう考えても貧しい地位の羊飼いをしていた。

 

そんな彼を通して神様がいくら語ろうと、アモスは絵空事だ、そんな事、とは考えなかった。冷静に考え、貧しい私のままでいさせてどうして神様が言う事など信頼できるだろう、とは考えなかったず、神様が彼をとらえ、彼と一緒に歩んでくださっている事、これ以上の豊かさ、幸せはない、と実感した。

 

↑の神様のことばを彼自身まさに実感していたのではないだろうか。「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」と。神様は、私たちと「仲良い」関係となり、歩みたいのです。神様が、あなたと共にいるという事は、そのご自身の愛を現されるのです。びっくりですよね。

 

どうしても日本にいると、神様って遠い存在に感じたり、思ってしまう、いや勝手に思い込んでしまう不死があるのですが、果たしてどうか?神様は、仲の良い関係をあなたと、私たちと結びたいのです。私たちは様々なものと契約を結ぶ、自分が豊かになる事を求めて、なんか意義ある人生にしようとする。

 

でもね、たぶん世の中見ているみなさんなら分かると思いますが、それはそれぞれの思惑があるから、そんな完璧な関係など気付けないし、それぞれの思惑がある以上どうして本当の豊かな関係を結んだりできます?お互いのお互いへの愛があって初めて豊かなものとなる。愛のない関係において、それぞれが語る言葉など、行動など絵空事に過ぎず、あなたを保証する事などできないのです。それを本当の意味であなたに成す事が出来るのは神様のほかにはありません。

 

神様はあなたに絵空事のような事を語る、口先だけの神様ではない、神様はあなたの内にご自身の栄光を現し、私たちはその神様をほめたたえる者として造られた。神様は私たちの内に「愛を」注ぐ対象として造られた。ただ上から見ているだけの愛ではない、一緒に歩んでご自身の御心を現すものとして。

 

ところが、私たちは神様のくださるものなど私を満たす事はない、それは絵空事だ、神様はわたしに最高の物を与えていない、なぜ私はそれならこんなに貧しい(アモスの状況でいうなら。他にも苦しい、問題だらけだ、他はうまくいっているのに自分はこんなんだ、などなど)んだ?と神様から離れて行ってしまう。下手をした神様の存在さえ、絵空事と片付けてしまう。しかし、親が子をどうして見捨てるだろうか?

 

世の富はやがて崩れ去る。いつまでもあなたを保証する事はできない。だってそれはある意味ではサタンの見せる絵空事でしかないのだから。そんなのは最近の日本を見てもきっと分かるかもしれない。当時のイスラエルだってそうだった。

 

でも、神様のあなたへの愛は永遠に変わらない。むしろ私たちが世の富に惑わされるなら、仮に世のもたらす何か、罪のもたらす何かに富んでいっても、あなたを作られ愛し、この天地万物をすべ治めている神様のくださる、あなたの内にもたらそうとしている計画、愛がどんどん失われ、貧しくなっていく。果たしてそれでいいのだろうか?

 

神様は本当にあなたに何も与えない?神様は、あなたのために全ての良きものを用意してくださっていた。あなたを作られた神様は、親が子に最高の物を備えるように、全ての良きものを備え、あなたの人生を豊かに導く、時に苦難困難の中を通ろうともあなたを背負い共に歩まれ、その中においても神様の素晴らしさを現し体験させてくださる、喜びの中を通る時、なお神様の素晴らしさを見せて下さる。あなたのうちに現そうとしてくださっているのです。今も生きておられる神様は、あなたに絵空事、夢物語を見せて終わる神様じゃない、どこかの神社仏閣程度に引き下げてはいけない。神様は、今も生きておられる神様なのだから。

 

しかしそれでも神様を絵空事の存在として片付け、神様と仲良く歩むより、他の何かと仲良く歩み、疲れ果てた、暗闇の中、サタンの見せる絵空事の富に生きる、神様のいのちを、神様があなたに計画している良きことを失っている、その恵みを、養いを、愛を失っている私たちを、死にゆく私たちを見捨てられない神様は、ついに、御子イエス様を私たちの内に生まれさせ、生きさせてくださった。私たちの間に住まわってくださったのです。神様の愛を言葉だけ、絵空事で片づけず、具体的に実際に、仲良しとして歩まれた。でも優しさだけの愛ではない、時に間違っている、危険な時はきちんと明確に悔い改めに導き、いのちの道へと引き戻そうとされた。なんと、裏切りのユダにまで悔い改めの機会を示されたほどに。神様は具体的に私たちの衣食住の必要、それだけではなく霊的な必要を持神様はくださった、現していってくださった。

 

それでも、自分の必要以外は神様を求めず、認めず、自分勝手に歩む私たちを見捨てることなく、私たちのこの罪をイエス様が身代わりとなって背負ってくださった。その十字架で罰せられ、この罪人ある私たちを引き上げるべき死にまで渡された。そして復活と共に私たちを一緒に死から引き上げ、神様の御元に連れ戻してくださった、神様の子として受け入れ、和解していただいたのです。神様の語られる愛は絵空事ではなく、十字架で具体的に現された。あなたを取り戻し、あなたと和解し、再び命の関係をあゆむためなら、と御子イエス様のいのちまで差し出してまで、あなたと歩む決断を、仲良しになる決断をされたのです。

 

でも、「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」と↑で語られているように、私たち自身が神様の愛に応答、立ち返らなければこのいのちの道、復活の新しいいのちは、神様の御心は始まらない。あなたの最後は決断によるのです。神様の絵空事ではない、リアルな愛を、いのちを今日、いただこう。その時、復活のイエス様はあなたの内に住まわれ、あなたと共に世の終わりまで歩んでくださる、その愛を、御心を、御力をあなたの内に現しながら。命を懸けてあなたと一緒に歩み、愛する決断をされたイエス様の愛に、今日あなたはどう応答するだろう?何を願うだろうか?