「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
伝道者の書12章1-7節
神様は、私たちが知らないだけで、あなたのことをよくしっておられる。あなたの頭の毛の数だってちゃんと知ってるくらいあなたの事に関心を持っておられる、というか覚えておられる。だって、あなたを造られたのは他でもない、神様なのだから。神様があなたを覚えている、なんと感謝な事だろう。
さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王、ソロモン王が書き残したことばの一つ。彼は本当に知恵に満ち溢れていた。神様の憐みによって。彼のお母さんは、先代の王に見初められ、不倫に導かれた(王に逆らえるか?という問題もありますが)ある意味で悲しい一家。しかし王から暗黒歴史だからと抹殺されること無く、神様の助けによってか、その王と正式な夫婦となり、改めて与えられた子がソロモン。そういう意味でも、↑の最初のことば「あなたの創造者」というのはリアルに実感するものだったのかもしれませんね。
歴史から抹殺され、存在さえしなかったかもしれない(王の不倫の過去を隠すために殺される事だってあったかもしれない?)、しかし神様は夫婦を覚え、ソロモンを与えられた。先代の王も悔い改めて、改めてこのお母さんと結婚した(都合がいいと言われたら仕方ないかもしれないけど)。そして神様ご自身がその愛情をもって創造された。神様は彼の全生涯にわたって、イスラエルの暗黒歴史としてではなく、大切な子として導いてこられ、王に導いた。またその王となった後も、彼の内に豊かに働かれていったのでした。
まあ残念ながら後にソロモンは神様を捨て、悲しみの道に進んでいき、悲しい最期を迎えて行くのですが。王となってすべてを得た彼は、神様などいらない、いなくてもわたしの力で十分だ、と。ないし、この事は神様よりも他の国と盟約を結んだ方がいい、と神様を信頼せず見捨てて行った。ある意味で反面教師的に、だからこそ↑のことばが際立つのです。神様の事を覚え続ける事の大切さを。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」。あ、じゃあ年取ってから覚える事は無意味?いえ違います。だからこそソロモンは失敗した。周りから裏切られ、信頼していた偽神に裏切られ…それこそ↑にあるように、彼の内から喜びが取り除かれた。というよりも自分で喜びの源、命の源なる神様を捨てたわけですが。
神様は、私たちの事を覚えて下さっているんです。昨日の箇所でも、80歳過ぎた老人のところに、イエス様が訪れ(両親に連れられて)彼らに喜びをもたらした、というところ見ましたが、「神様が」私たちの障害をそれこそ、覚えていてくださっているんです。あなたの「創造者」、あなたにいのちを与えて下さった方が、「あなたの若い日」どころじゃない、あなたの生まれる前から覚えていてくださっているのです。神様はあなたの事を言日にたりとも忘れたことはない。
私たちは夫婦の営みの中で確かに子供を授かりますが、ちょっと冷静に考えてその成り立ちを考えて、「いのち」までは造りだせません。神様があなたを覚え、あなたを愛し、そのいのちを授け、その身体を建て上げ、作り上げて下さっている。母の胎の中にいる時から。お子様がいるなら、もしくは妊娠中の方ならその成長を不思議に思った事はありませんか?私は我が子が妻の胎の中で成長していく姿の前に神様の存在なくばあり得ないのを実感させられました。
あなたにいのちを与えた方、あなたの創造者、その方はあなたを適当な存在になんかつくらなかった。適当でいいなら、天使とかに差せて、最後の仕上げ、とかにするでしょう。でも神様はご自身の手で造られた。無責任に投げ出す方ではない。それこそ、喜びがないという存在としてではなく、喜びに「神様が」満たされる存在として。
「太陽と光、月と星が」あなたを照らし、「雨の後に」晴れ間が照らされるように…まさに↑の悲しみの詩と真逆の事を神様はあなたの上に成そうとしている。でも、私たちがこの希望から、いのちから離れては何にもならない。この恵みがあなたを生まれた時からずっと覆い導こうとしている。
あなたは何もかも暗く見えるかもしれない、もううなだれるしかなくなるかもしれない。でも、神様は私たちが神様を覚えるよりもずっと昔から、あなたが生まれる前からあなたの事を覚えている、あなたを養ってくださり導いてきてくださっている事を忘れてはいけない、覚えてなければいけない。誰もいないじゃないか?いえ神様がいるじゃないか。私たちが神様に絶望する?違う、神様は私たちに希望を与える。私たちが神様を捨て、神様に失望され、捨てられてもおかしくない、上のような悲しみの日、裁きの中に、暗闇の中に、罪の支配する中に閉じ込めっぱなしにする事もできる神様は、私たちを救うため、御子イエス様をお与えになられたのです。あなたが塵のようなものとして終わりのではなく、神様のもとに引き戻すために、神様のいのちの内に帰れるように。
私たちのために、神の御子イエス様が人となってわざわざお生まれになってくださった。そして私たちの間に住まわれ、仕え、ご自身の愛を余すことなく注がれていった。イエス様は口先だけ愛している、とは言わずに、具体的に私たちの暗闇に光を与えに来られた。とらわれ人を釈放し、目の見えない人の目を開かれ…多くの病を癒し、また社会から捨てられ絶望している人に具体的に回復を与えて下さった。それだけではない、私たちの抱える罪の問題、このまま神様と断絶され、↑のように死にゆく事が無いよう、その裁きの日に裁きの宣告を受ける事が無いよう、私たちの罪の代価、死を、その身に背負われ十字架に架かられ、身代わりに罰せられ、死なれたのです。そのいのちの、十字架の血潮を私たちにふりかけ、私たちに恵みをもたらされた。復活とともに、これらすべての闇も病も死も、失望も、すべてイエス様の新しい復活のいのちによって造りかえて下さるのです。
あなたを覚えるイエス様は、十字架上で、「〇〇は裏切ったから赦さない」と、目の前にいるローマ兵や、裏切者の群衆、逃げた12弟子たちの名前を赦さない、と挙げるのではなく、むしろ1人1人を覚え、一緒に十字架に架かった死刑囚さえ「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と自らの命を懸けて赦しを懇願してくださったのです。神様によって造られたあなたを捨てられない、ゆえに、御子イエス様のいのちを犠牲にする事を神様は選ばれたのです。それほどまでにあなたを愛される神様が、今日、あなたのことをおぼえておられるのです。
それほどの方が、あなたを生まれる前から覚え、見捨てられず愛されて導かれる方が、あなたを救いたいと御子イエス様のいのちを惜しまず与える方が、あなたの内に住まわれ、あなたの命を良きものに変えるため、罪奴隷から神の子へと造りかえてくださった、そのことを覚え感謝し、歩もう。あなたにいのちをもたらすのは世でも、罪でもない、これほどにあなたを愛されるイエス様があなたの内に働かれ変えて下さる。今日この方に自身を委ね、歩もう。