ーイエス様が12歳の時・探すべき場所ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。両親は彼を見て驚き、母は言った。『子よ。まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。』するとイエスは両親に言われた。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」

ルカによる福音書2章41-52節

 

イエス様は私たちの救い主。と同時に私たちにその道をも示された。私たちのすべての手本となられた。イエス様は神であられるのに、人となって来られた。どうせ神様は私の事など分からない、などと思う前に、私たちはイエス様を求めよう。イエス様は私たちの、あなたの主なのだから。

 

さて、↑はイエス様が救い主としての公生涯、働きを始める前、12歳のころの出来事です。そうなんですよ?イエス様ってどこか遠くにいる存在ではなく、人と同じように生きられたんです。来られた時は、聖霊様によってマリヤの胎に宿る、と言う特別な方法を取りましたが、罪を犯す以外には全く人と同じように、お腹もすけばつかれる、怪我をすれば血も流す、そうしてイエス様は人と同じように歩まれた。両親・マリヤとヨセフのもとで。

 

昨日、イエス様は私たちの初穂となられた、と書きましたが、イエス様はそうして私たちに1つ1つその道を示されていったのです。ある1個だけ恵みを授けよう、ではなかった。イエス様が私たちと同じように歩まれる中で、私たちが歩むべきを体験される中で示されていったんですよ?神の御子たるイエス様が。驚きですよね。

 

ちなみに、イエス様は洗礼もおうけになられました。ご多分に漏れず、私たちが罪の誘惑・サタンの誘惑にあうようにイエス様もサタンの誘惑を受け、これを退けられた、イエス様はいいとこ育ちだから貧しさ分からないでしょう?いえ、イエス様はとても貧しい家庭に生まれ育ちました。平和しか知らないんじゃないの?イエス様の生きられた時代はローマ帝国の支配下に、当時最強のローマ帝国の圧政の中にいました。私たちがイエス様を勝手に遠ざけているだけでイエス様は実はとても近くに来られていたんです。

 

ちょっとごたくを並べすぎてしまいましたが、話しを↑に戻しますね。といってもまったく無関係と言うわけではないのですが、その辺は後半で。

 

イエス様は12歳になられたある日(ちなみに当時のイスラエルの成人は13歳)、過越の祭りに来られました。過越の祭りと言うのは、紀元前、かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として捕らえられていた時、神様が民を憐れまれ、モーセを通して彼らを救い出した、エジプトを討たれ、救い出されたことを記念する祭り。イスラエルは、小羊の血ゆえにその裁きを免れ、神様の民に加えられていった、それを記念する祭り。

 

これを神様は記念として行うように命じていたのですが、やはりイエス様は神の御子であろうと関係なくこれを行いに来られました。と言っても、まだ12歳ですから両親に連れられて、ですけど。神の御子だから私には必要ない、と不遜になるのではなく両親に従われる、その姿も見られますね。

 

しかし、両親たちが祭から帰るとイエス様の姿が見当たりません。イエス様がどこに行ったのか?両親たちは捜しますがどこにもおらず。

 

するとなんとイエス様は、宮の中で教師たち(ようするに、聖書のお話をする、教える人たちのこと)の中でイエス様は聖書について一緒に考えていた。御ことばを味わっていたのでした。12歳の子供とはとても思えない、専門家の教師を驚かせるほどのその知恵に驚かされたのです。そこに両親たちは到着して、心配していたことを言うと、イエス様はこう答えられた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」と。

 

両親たちはこの時はこのイエス様のことばが理解できなかった。ただイエス様のこの言葉だけは心に留めていた。でも、イエス様は別に反抗したくてこういったのではない、私たちが神様を求めるべきところはどこか遠くではない、いつでもこの宮におられる。主はいつでも語られる(物理的な教会とかそれだけではなく)、イエス様はこの父なる神様の御元に、御言葉に留まることを行われた。本当の意味で私たちが「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛され」るものとなるために、私たちはいつでもこの神様のもとに留まり養われる必要があるのです。

 

神様は、私たちの話を聞いてくださる。律法の教師どころの騒ぎではない。あなたを造られ愛し、この世界をすべ治める方が、すべてをご存知の方がすぐ傍におられる。私たちはかってに神様を遠い存在にしたり、遠くに追いやったりするけど、むしろ神様ご自身から私たちに近づいてくださった。本来私たちは神様を捨て、離れ、罪にまみれ神様とご一緒するなんておこがましい話な中で、断絶された中で、むしろ神様から近づいてこられたのです。そしてここに神様は招いてくださったのです。ここにすべてがあるから、と

 

私たちは様々なものを、解決を、癒しを、捜し求める。いいんですでもそれはもうあなたのすぐ近くに、イエス様が来られ、私たちはこれを得られるのです。イエス様が、人となって来られ、それだけではなく住まわれ、私たちのすべての重荷、痛み、あらゆるものを体験され、ついには罪を、私たちが支払うべき罪(罪とは犯罪的な事だけを刺すのではなく、神様から離れ、神様を神様とせず生きること)の代価を支払わなければならなかった。

 

でも、すでにイエス様が私たちの罪の代価、死を十字架に背負われ死なれたことによって、また3日目によみがえり、父なる神様のその懐にイエス様が戻られていかれたように、私たちもまた、この父なる神様の懐に招かれるのです。養いの中、家族の中に、神様の子として招いてくださったのです。この十字架において、死も痛みも病も何もかも葬られあなたは、新しくされるのです。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、新しく造り変え、そのいのちで溢れさせて下さる。まさに昨日の初穂の恵みに、復活の恵みに私たちは与れるのです。

 

私たちは、どうせ神様は私の事など分からない、などと思う前に、私たちはイエス様を求めよう。イエス様は私たちの、あなたの主なのだから。あなたを丸ごと愛し、救うため、いのちを得させるため、ご自身を全て丸ごと投げ打ってまであなたを救いに来られたイエス様、あなたの最も近くに来られ、住まうために来られたイエス様と共に歩もう。この方のいのちの養いの中、今日も歩もう。この時、私たちは本当の意味で「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛され」るようになる。キリストの身丈に、似た者とされて行く…この素晴らしいいのちを今日、いただこうではありませんか。