ーイエス様、来てください2:ただで受けるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。『わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。』御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」

黙示録22章12-17節

 

イエス様はやがてもう一度こられる。私たちを花嫁として迎え入れて下さる。そして永遠の御国を建て上げて下さる。神様は私たちと一時の契約を結ぼうとされたのではなく、永遠の契約を私たちと結ぼうとされた。そして今もイエス様はあなたのためにそれを備えて下さっている。今日も明日も、イエス様はあなたにその御目を注がれている事を忘れてはいけない。

 

さて、↑は紀元一世紀、ヨハネというイエス様の弟子の一人だった男に、復活のイエス様が啓示された預言の一部。いや、語られたことばの一部、と言った方が良いでしょうか。そして聖書の一番最後に記された約束。それが↑になります。

 

その語られたイエス様、イエス様は神の御子であられるのに人となって来られた。平和な時代ではない、当時ローマ帝国に支配され苦しめられていた中に、わざわざ人となって来られた。罪を犯さないという点以外では全く人と同じようになられて。イエス様は赤ちゃんとして生まれてこられ、人と同じように育った。しかも神の御子であられながら最も貧しい家系と言ってもいいような家に。王宮ではなく。

 

イエス様は人の重荷を全て体験し、また背負い歩まれた。ただ称賛を受けるためではなかった。イエス様はご自身の愛を惜しむことなくそうして注ぎながら、ある時は癒され、ある時は励まし、ある時は悔い改めに導き…しかし群衆たちはイエス様を「ローマ帝国から解放するメシヤ」としか考えておらず、その期待に応えない神など神ではない、とあっさり裏切り、事もあろうに十字架に架けたのです。

 

「ローマ帝国」どころではない、ああもちろんローマ帝国もやがて討ち滅ぼされ、キリスト教国家に変えられていったという意味ではイエス様はこれに勝利を収められたわけですが。むしろイエス様は私たちをこの罪の縄目、死から解き放つ、勝利されるために来られたのです。

 

しかし、イエス様は裏切られようとも帰って行かれることはなかった。こんな裏切り者など捨ててさっさと帰る事が出来たのにそれをされず、最後の最後まで十字架から降りる事はなかった。なぜ?イエス様が架かられた十字架は私たちが本来架からなければならない者だった、私たちが神様を捨て、裏切り、神を神ともしない罪深い私たち(罪とは犯罪的な事だけをさすのではなく、神様から離れる事、神様を神様とせず歩む事です、一言で言うと)を、断絶されてしまった神様と私たちの関係、親子関係を和解させるべく、身代わりに十字架に架かられた、これこそが神様の御心、愛だったのです。

 

そして、十字架に身代りに架かられ罰せられただけではなく復活されたことによって、罪も死も完全に打ち破られ、イエス様を救い主として信じ受け入れるすべての人に永遠のいのちを与えて下さる、罪の赦しと神様の和解を与え、神様の子として迎え入れられるのです。

 

イエス様が来られたのはまさにこのためだったのです。イエス様はその和解を果たされ、永遠の契約を、私たちと、そのご自身のいのちにかけて結ばれたのです。イエス様は復活の後天に昇られましたが、御子イエス様のいのちによって結ばれたこの契約の関係はもはやなにものも打ち破ることはできないのです。それは時が経とうと変わらなかった。

 

↑のヨハネに、復活のイエス様が語られていた時代は、もうキリスト教の大迫害時代でした。それこそイエスなど信じたって何になるんだ?そう叫びたくなるほどにむごたらしい時代だった。ヨハネの仲間たちの多くも迫害によって殺され、殉教していったし。しかし、イエス様は彼に未来を見せられた。救った後天に帰られて終わりではない、その御手はなお伸ばされている。あなたの周りにあるものも、迫害者も、敵もサタンも、「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな」、やがて全部外に出される、討ち滅ぼされるのです。

 

神様の御手はなお彼らの内に注がれている事を未来を示される中でイエス様は訴えた。彼らを、私たちを神様は見捨てない、十字架の、イエス様のいのちによって結ばれた契約の前に、これらは、あなたを悩ます問題も何もかもあなたを打ち破ることはできないのです。神様の御心、完全なる御国が、あなたの内に復活のイエス様が住まわれる時、世はあなたに打ち勝つ事などでいない、御子イエス様の御名によって。

 

イエス様はアルファでありオメガ、あなたの最初から最後まで責任を持たれるべく十字架に置いて、そのいのちを投げ出し契約を結ばれたのです。やがて花嫁としてあなたを迎えるべく。あなたを外に投げ出すためではない、「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者」となるために、ご自身の家族の中に招き入れるためにそのいのちを惜しまず与えられた。

 

これは、ただで私たちは受けることができる。なぜならイエス様がその十字架においてそのいのちを支払った故に、私たちはただ「イエス様、来てください」「我がうちに住まい治めてください」と迎え入れるだけで、あなたは渇く事のないいのちの水を得るのです。

 

最後、イエス様に外に追い出されるものになるか、イエス様のいのちの憩いの中に生きるかはあなたの決断。イエス様はすでにあなたのために備えて下さっている。あなたの罪を洗い聖め、その着物の罪の汚れも、痛みも悲しみという名の染みもすべてイエス様の血潮によって洗い聖められ、神様の子という衣を着せていただける。この大いなる恵みを今日受け取り、このいのちの内を歩もう。「イエス様、来てください、が内に住まい治めてください、御国をなしてください」と今日、祈ろうではありませんか。そこからイエス様の大いなる御心が、あなたの内から広がっていく。未来の約束の前味を私たちは今体験する。あなたは今日、イエス様の前気に応え、救いの門、神様の家・養いの中に入りますか?それとも外に出てそれでも私は私として悲しみの中を歩みますか?