ーあなたを喜ばれるイエス様の愛は永遠ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」

箴言822-31

 

イエス様はどのくらい私たちに関心があるのだろう。一時だけだろうか?いえ、永遠に、です。永遠にあなたを愛する事の望まれているんです。あなたが産まれるよりもはるか前から、お母さんの胎の中にいる時から。そしてあなたの死して後にまで。あなたはこの神様の愛を知っているだろうか?

 

さて、↑は紀元前、イスラエル王国の3代目の王、ソロモンが残した箴言の一部です。ソロモン王の秘宝とか、知恵とか、色んな形で「ソロモン」という名前は多くの人は知っていると思います。ソロモン宮殿、神殿、様々ですね。ただ、この王様が本当に知者だったら、奥さんと妾さん合わせて1000人だったり、神様を捨てないと思いますけどね。

 

と、話は戻して、彼は多くの知恵も成功も、富も得た。でも、彼は真の神様、真の知恵が無ければ生きることはできない、そう結論に至ったのでした。ソロモンは、その真の知恵、御子イエス様について↑の箴言の中で紹介するのです。

 

↑に登場する「わたし」とはイエス様。といっても、まだ人となって来られる前のイエス様ですが。イエス・キリストと言いますと、どうしても今から約2000年前のクリスマスに初めて登場した、というイメージがありますが、実は↑にある通り、永遠の昔から存在しておられたのでした。そう、人が神になったのではない、神の御子たるイエス様が人となって来られた、これだけでも十分すごい話なんです。だってそうでしょう?なぜ神であられるのにわざわざ弱い人となってくる必要がある?しかも当時はローマ帝国に支配された時代、そんなきつい時に来なくてもいいじゃないか、と思う、でもイエス様はそれでも人となって来られる事を選ばれた。

 

イエス様は、私たちの一部だけに関心があるわけではないのです。永遠の昔から存在されていた。この天地万物が作られる時には既に存在しておられた。なんと、「神(様)が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」というのです。

 

そして、神様は人を造られた。アダムとエヴァを。彼らに最高の環境を神様は造られたのです。彼らへの愛の結晶と言ってもいいでしょう。しかし、彼らは神様が与えて下さるものに満足しなかった。エデンの園の中央にある木の実は食べてはならない、と言われていたのに彼らは食べた。別に神様は意地悪をして彼らにそういったのではない、園の中央、神様の主権に委ねる事を教えた、神様の内には全てがあるから、それ以上のものを求める必要がなかったのです。神様が最高のベストであることを。しかし彼らは、そんなものはいらない、と拒否した。サタンの誘惑があったと言えども。

 

そんな彼らは本来その罪ゆえに死ななければならなかった。食べたら死ぬ、と言われた通りに。神様との断絶が決定的になった。しかし神様はそれでも、愛された。このまま彼らが死にゆく事が我慢できない、と、御子イエス様をやがて罪の贖いとして十字架に架け救うことを約束された。

 

最初から存在しておられたイエス様は彼らの罪を知っていた。そして人類がどれだけ神様の愛が注がれても逆らい続け、裏切り続けて来たか、知っていた。それでも、なぜ神様はその御手を伸ばされ続けたのか?なぜ救いの贖いとして御子イエス様を十字架に架けるという約束を変えなかったのか?それはあなたという人が滅びることなく永遠のいのち、神様のいのちの内にとらわれ生きる事を何よりも願われたからです。

 

ある一時だけ助けるだけなら、御子イエス様を十字架に架ける必要なんてなない。その思いが変わるなら、とっくの昔にこの約束を神様は無効、反故にされただろう。しかし、神様の私たちへの愛はかわらなかった。それはこの約束から数千年たったソロモンの時代にあっても、「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」、とある通り。それでも彼らが生きることを何より願っていたのです。

 

これだけの長期間にわたっての人の裏切りをどれだけ神様は悲しみ続けただろう、それでも神様の私たちへの願いは、私たちが神様に立ち帰り生きること、罪を贖われ神様に立ちかえ生きることに他ならないのです。

 

神様のあなたへの思いは、ある一時の愛ではない。永遠に至る愛なのです。この永遠の愛の中にあなたは存在している。そのあなたのためにも、神様は御子イエス様を十字架に身代りにかけ、死なせる程に愛されたのです、愛されているのです。あなたを永遠に取り戻すべく。永遠の神様の御手、愛の中に招くべく。あなたを罪の中、悲しみの中、闇の中に二度ととらえさせないため、サタンの中に、永遠の裁きの中に陥る事がないように。

 

しかし、神様はイエス様を死で終わらせず、復活させた。その罰を良しとして受け入れた。これをもって、私たちの罪を赦そう、と。私たちが自分の罪(犯罪とか、それだけを刺さない、神様を神様とせず歩んできた、神様から離れていた…)のために御子イエス様が身代わりとなり十字架に架かられたことを信じ受け入れ悔い改めるなら、私たちはこの罪の赦しをいただく。そして、死からいのちへと移される、復活の恵みに与る。神様との和解を果たし、永遠に向かう神様との関係へと招かれるのです。

 

永遠の昔から存在しておられたイエス様の実行された愛。その結晶があなたの内になる。それほどの愛によって取り戻されたあなた。あなたはこの愛を受け取るだろうか?この愛にあなたはどうこたえ生きるだろうか?この大いなる愛があなたを覆い導かれるならどうして期待しないでいられましょう。今日、この愛を受け取り、この愛のうちに生き、主と共に歩もう、この愛は中途半端なものではない、欠けのない最高の愛。この愛に答え、今日も歩もう。主と共に。