「ユダの王ヒゼキヤが、病気になって、その病気から回復したときにしるしたもの。私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。私は言った。私は主を見ない。生ける者の地で主を見ない。死人の国の住人とともに、再び人を見ることがない。私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。イザヤは言った。『ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。』ヒゼキヤは言った。『私が主の宮に上れるそのしるしは何ですか。』」
イザヤ書38章9-22節
死。これ以上に私たちを追い込むものはない。誰しもに訪れるもの。でも本当の意味での死は、いのちにかかわるものだけではない、神様との断絶。これほど悲しい物はない。いのちなる神様から離されては。しかし、神様は私たちをその死から命に移されるため、御子イエス様を私たちにお与えになられた。いのちに移し替えられた今、私たちはどう生きるだろう。
さて、↑は昨日の続きになります。様々な失敗がありながらも、それでも神様に従い続けてきたヒゼキヤ王(紀元前。イスラエル王国が分裂し、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされ、捕囚されたころの時代)。私のお心ではなく、神様の御心が我がうちになる事を、この国になる事をただ願い続け、祈る人でした。そしてそのように国を治めていました。
ところがある日、せっかく彼らを責めていたアッシリヤ帝国の王が討たれたのにもかかわらず、これから、という時に彼は死に向かう病に侵されるのでした。なぜ?どうして?と彼は嘆き祈り、叫んだ。彼は神様とのすばらしいこの歩みがここで終わることを嘆いたのです。もっと神様を味わいたい、と。死で終わる事を嘆いた。しかし彼の祈りを聴かれた神様は、その死を癒されたのでした。昨日も書きましたが、死は神様の前には無力であり、それは神様と分かつ事はできないことをまさに示されたのでした。
さて、その病を癒された後に彼が書いたもの(おそらくその時に祈っていた内容も含まれるでしょう)が↑になります。彼はどんな思いでいたのか。↑を見ると、彼の嘆きがありありと描かれています。王として弱い部分を見せるのは国民に示しがつかない、それが普通の感覚です。しかし、神様の前には、王であろうが何だろうが関係ないのです。あなたが何者であるかなんて関係ないのです。
彼は死を突きつけられたとき、もはや神様との永遠の別離しか考えられなかった。彼自身、自分が神様の恵みに与るなんて資格はない、と思ったのです。彼は王としての実績は上げ、成功したかもしれない。何せ、北イスラエルを打ったアッシリヤを撤退させ苦しめた王は討伐された。もう思い残す事はない、と普通なら言える立場。しかし、彼にとってはこの世の成功なんてどうでもよかった。いやそれらはそもそも神様がなさせてくださったものなのですが。神様と別離される事、神様の恵みが失われる事など我慢ならなかったのです。
ヒゼキヤは王ですから臨もうと思えば何でも手に入る。好きなように生きようと思えば生きられる。事実彼の父や先祖の王たちの多くはそのように生きてきた。彼はそれが出来る立場。しかし、そんなことよりも、神様にこのまま捨て置かれる事を嘆いたのです。もちろん神様の目は彼の内に向いている。でも、神様に「昼も夜も、私を全く捨てておかれ」られるなんていやだ!それが彼の思いなのです。
ああ、この思いを私たちはどれだけ持っているだろうか。神様があなたのすべてとなっているだろうか?そう思っているだろうか?多くの人は神様なんていなくても大丈夫、と神様との関係にあって死んでいる事を、別に~?と思う。神様がどれだけ偉大なことをされているか、あなたを愛されているかを知り、それをどれだけ求めているだろうか?神様の御心があなたの思いの片隅に追いやられていないだろうか?嘆き悲しみ叫ぶほどに神様の恵みを、愛を、御心を、神様ご自身を求めているだろうか?昼も夜も。
しかし神様は、あなたは何十億人の内の一人、として見ていない。あなたという一人の人を見ておられる。あなたが昼も夜も、なんて神様思ってられないよ~時々神様の御心を求めるかな、困った時くらい、とか思うのとは逆に、神様はあなたを昼も夜も、あなたが神様を捨てている間さえあなたを思っている。どうかいのちを得てほしい、と。
ヒゼキヤを捨てられなかった神様は、同じようにあなたを捨て置く事などできなかったのです。だから↑に輝く「保証人」、私たちのいのちを、いや、私たち自身を保証するために、御子イエス様を遣わされた。「私の保証人となってください」という願いに対し、御子イエス様のいのちという最高の形で答えてくださった。私たちが死ぬ代わりに、神様と永遠に別離されないために、私たちの罪の代価、死を、御子イエス様に身代りに背負わせ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なせた。でも、死で終わらせず、十字架の死を良しとされた神様は御子イエス様と十字架上で断絶された状態を癒されるため、復活させてくださり、和解の道を開かれたのです。
この復活によって、御子イエス様を自分の罪のための救い主として信じ受け入れるすべての人を、死から命へ、神様との断絶から和解へ、永遠の裁きから永遠のいのちへと移されたのです。あなたという一人の人を、御子イエス様のいのちにあって保障されたのです。イエス様があなたの保証人となって、神様との和解を果たされたのです。
御子イエス様にあって、ヒゼキヤの「主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました」という告白はまさに成就したのです。全ての罪はもはやあなたを縛り付ける事はできない、世も罪も、サタンさえ。
このいのちを得た今、あなたはどう生きるだろう?「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう」と私たちも告白しようではありませんか。あなたの琴、あなた自身をもって神様に従い、神様の栄光を現していこうではありませんか。死から命へ移された、神様と和解されたこの関係、いのちの中を、恵みの中を今日も歩もう。誰が死から命へ移したか忘れてませんか?「御子イエス様のいのちを惜しまず与えた父なる神様」です。この方があなたを死から命へ移される決断をされた。この新しいいのちを大いに期待し歩もう。あなたの保証人イエス様に信頼し。